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カンボジア研究 その自然・文化・社会・政治・経済 2019/9 藁谷哲也(著)
1990年代初頭、長年にわたる内戦とそれによる混乱から抜け出し、平和を回復したカンボジア王国。急速な変貌を遂げつつあるカンボジアの実状を紹介
味の台湾 2021/10 焦桐(著),川浩二(翻訳)
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カンボジア王国の歴史 均衡の狭間

歴史概観   内戦   年表   経済 

◆カンボジア王国の概要

カンボジア王国は、インドシナ半島の中央やや南西側に位置して、タイ(北西側)、ラオス(北側)、ベトナム(東南側)と国境を接し、総面積約18万平方キロの国土(日本のほぼ半分)を保有しています。カンボジアの総人口は、約13.8百万人(2005年。日本のおおよそ1割程度)。その内9割がクメール人(カンボジア人)で、他は約20あまりの民族で構成されています。また、就業人口の約8割は農民で、またクメール人の大半が上座部仏教を信仰しており、典型的な農業国であり、また仏教国でもあります。

カンボジアの地勢をみてみますと、中央平原の東よりを流れるメコン川(全長約4200Km:水量の雨季乾季比約20倍)と中央平原の西よりにあるトンレサップ湖(伸縮する湖:雨季乾季比3倍以上)は、湖沼・湿地・浸水林を潤し、平原部に豊富な水を供給(ご参考:世界の降水量の分布)してカンボジアの農業を支えています。隣接国との国境に沿って走る山脈は、山岳地帯を形成して、その周辺部を含み原生林の宝庫となっていますが、近年では森林伐採が急激に進み、森林地帯の減少が、 生態系の破壊自然環境の悪化等を促し問題となっています。一方、タイ国境近くの海岸部(海岸線約435Km)は、1960年代から開発の波にも洗われず、豊富なマングローブの原生林が残る貴重な地域となっています。

また、カンボジアは熱帯モンスーン気候に属すため、乾季(11月上旬〜5月中旬)と雨季(5月下旬〜10月下旬)があります。乾季の前半(11月上旬〜1月下旬)は、比較的涼しく1年中で一番過ごしやすい時期となり、旅行に最も適した季節となります。また、年間を通して高温多湿な気候(平均気温27.6℃・平均湿度77%)で、プノンペンでは雨季直前の4月で平均気温29.4℃(最も暑い時期)、乾季の初めの12月で平均気温25.4℃(最も涼しい時期)となります。また、年間平均降水量の最も多い時期は、雨期明け前の9月〜10月となります。

 

カンボジアの地図>

 

近年のカンボジア経済は、内戦時代を反映した二人首相体制の下で国家再建が開始され、1997年の政変などで不安定化の危険もありましたが、1998年及び2003年の総選挙を経て成立した、フン・セン首相を首班とするカンボジア政府は、様々な課題を抱えつつも安定した政権運営を行い、経済も徐々に回復(2004年〜2007年までは年率2桁の成長率)してきています。基幹産業は農業でGDPの3分の1を占め、就業人口の7割を吸収しています。フン・セン首相はODA依存(DAC諸国からの2国間のODA総計額はカンボジアの国家予算の3割に相当)を脱し、海外直接投資の誘致による更なる経済発展を標榜し、外国投資を優遇する投資法を策定した他、経済特区(SEZ)の設置等努力を続けています。安価な労働力などの好条件がある反面、物理的インフラの整備、法の支配の確立、透明性のある行政運営、最近のインフレ(2007年:5.9%→2008年:推定9.0%)・食料/燃料価格の高騰等、依然として課題は山積しています。

 

カンボジアの経済情勢>

 

◆カンボジア王国の歴史概観

 

 

○王国の起源とアンコール朝の盛衰

現在のカンボジアの地に人が住み着いたのは、紀元前数千年頃(注1)と考えられています。インド人商人はモンスーンを利用して、紀元前後からインドシナ半島南部(現在のコーチシナ)との交易を行っていました。やがて2世紀頃になると、インド文化の影響を受けた「扶南(フナン)」が、カンボジア南部のメコンデルタ地帯に建国され、内陸部の森林産品の集散地として栄え、海外との交易により発展しました。外港オケオ(現在のベトナム南部アンザン省)は、インド・中国・ローマ帝国(ご参考:戦後中国   台湾の歴史)を結ぶ海のシルクロードの貿易中継拠点となりました。

5〜6世紀になると、メコン川中流域・南ラオスのチャンパサック地方のクメール人が「真臘(シンロウ)」を興し、インドシナ半島を徐々に南下、7世紀に扶南を併合しました。8世紀初頭に「水真臘」と「陸真臘」に分裂・弱体化してジャワ王国の支配下に入りましたが、ジャワから帰国したジャヤバルマン2世が802年に統一、そして即位後、アンコール朝を創設しました。その後ヤショーバルマン1世(889年即位)は、アンコールの地を王都と定め都城と寺院建築を進めました。

そして、12世紀前半のスールヤバルマン2世は、近隣の海洋貿易国家チャンパ王国や大越国(ベトナム)を侵略して領土を拡大、アンコール・ワットをはじめヒンズー教寺院を建立しました。また、12世紀後半のジャヤバルマン7世は、アンコール・トムの造営、仏教寺院の建設をはじめ国内基盤の整備・拡大(注2)に努め、インドシナ半島の大半を支配化に治めました。アンコール王朝は、この時が最盛期となりました。

しかし、度重なる遠征や大寺院の建設などで国力は急激に疲弊してゆき、15世紀前半にシャム(タイ)のアユタヤ朝侵略されて、王都アンコールは陥落・放棄、その後王都は数次の遷都を重ねることになり、国家は衰退の一途をたどりました。領土は、15世紀以降は西のシャム(アユタヤ朝・バンコク朝)に、17世紀以降は東のベトナム(阮朝:グェン朝)に徐々に呑食されていきました。王権も、シャム王室の影響力の強まりと共に、王家の内紛・地方官僚の離反等で弱体化していきます。

18世紀の後半には、シャムとベトナムによる攻撃で国家存亡の危機に直面、19世紀前半にベトナム(阮朝)に行政権を奪われ(アン・メイ女王)、1841年には国土が併合されました。戦乱の中、シャムとベトナムの妥協が成立(1845年)して、1847年にアン・ドゥオン王が即位、国内には一時的な平和が訪れましたが、カンボジア王国は、両国の両属状態の中で存続することになりました。

 

 



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○フランスの進出と植民地支配からの開放

アジアに進出したフランスは、19世紀中頃より圧倒的な軍事力によってベトナム南部地方を攻略、やがてベトナムカンボジアラオスのインドシナ地域を支配下におさめ、19世紀後半にフランス領インドシナ連邦を成立させ、インドシナ総督府が全ての権力を握って統治しました。

カンボジアは、シャムとベトナムによる2重属国状態の回避のためフランスに接近して、その保護のもとで王国の存続(注3)を図りました。フランスの統治は、王朝・王権・仏教といったカンボジア固有の伝統を温存する一方で、社会経済開発・近代的教育制度の導入等には消極的で愚民化政策を取りました。また、中国人移民やベトナム人労働者を受け入れ、社会経済開発の担い手としたため、クメール人の民族意識の形成は遅れることになりました。1884年のフランスとの協約締結で、植民地支配は強化され、1887年には仏領インドシナ連邦に編入されました。

1939年に第2次世界大戦が勃発すると、日本と仏現地政府との共同防衛協定締結(1941年)により、日本軍の仏印への進駐が開始され、カンボジアは、仏現地政府と日本軍との共同支配下に入りました。やがて終戦が近づく1945年3月に、日本軍の仏印処理(仏現地政府の打倒)で、シハヌーク国王はカンボジアの独立を宣言しました。しかし、日本の敗戦(1945/08)と共に英仏軍がプノンペンに進駐して、フランスの復帰と共に独立宣言は取消されました(1945/12)。

しかし、ベトナムの独立宣言、ラオ・イサラ臨時政府(ラオス)樹立等戦後のインドシナ半島の独立運動は、フランスとの間で第1次インドシナ戦争の本格化(1946/12〜)を招きました。戦火は拡大して、やがて1950年には、反共政策の観点より米国フランス支援も本格化しました。ベトナム優勢の中で1954年7月にインドシナ戦争に関するジュネーブ協定(注4)が締結されました。この結果、フランスはインドシナ半島より撤退することになりました。

このような中、シハヌーク王のフランスとの積極的な交渉が継続され、1949年11月にフランス連合枠内での限定的独立(司法権、警察権、軍事権を除く)の獲得、そして国内の反シハヌーク活動(ベトミン系ゲリラ・反共勢力)を抑え、合法クーデターで全権を掌握(1953/02)し、国際世論に強く訴え、1953年11月に完全独立を達成しました。

 

 

      

 

○ベトナム戦争と干渉、果てしない内戦へ

シハヌーク王は、戦乱の続くインドシナ半島・東西冷戦の国際環境下で、独立・平和維持・領土保全のための外交政策として、非同盟・中立主義を基本とし、また、内政面では、仏教社会主義(王政社会主義。王政と仏教の護持)を推進しました。そして1955年、国家建設を推進する国民統合の体制として、左右イデオロギー勢力を内包した、「人民社会主義共同体(サンクス)」を結成(総裁に就任。王位は父スラマリット殿下に譲る)して、計画経済の導入を進めました。

しかし1960年代後半に入り、中国に倣った自力更生による経済政策失敗して、財政困窮とサンクス内左右勢力の均衡も崩れて、シハヌークへの批判も強まりました。また、この間の外交姿勢は、南ベトナムの国境侵入の国連提訴、中国・ソ連の軍事援助受諾(1964年)、米国との外交断絶・米国のベトナム参戦(1965年)とベトナム戦争に関する中立維持と国土保全のため共産圏寄りの姿勢になっていました。このような中、1970年3月に右派親米のロン・ノル将軍によるクーデターが発生、右派親米政権が樹立されるとともに、外遊中のシハヌーク元首は、国家元首を解任され北京に亡命しました。

シアヌークは、国土保全とベトナム戦争に対する中立維持のため、「カンプチア民族統一戦線」の結成を宣言して、共産勢力クメール・ルージュとの協力を表明しました。この結果、カンボジアは右派親米政権と内戦状態に入ると共に、ベトナム戦争はカンボジア国内に拡大(注5)し、米軍がカンボジア内戦にも直接介入(1971年〜1973年)してきました。しかし、1975年4月にクメール・ルージュを中心とした「カンプチア民族統一戦線」がプノンペン入城を果たし、内戦は終了しました。

ロン・ノル政権が倒れ民主カンプチア政府(ポル・ポト政権)が樹立されましたが、急進的な共産主義政策(注6)を断行したため、国内は再び大混乱となりました。また、政権成立直後からベトナムとの対立(注7)が激化するようになり、1977年の国境紛争・1978年のカンボジア領内侵攻、そして翌年1月には民主カンプチア政府は、プノンペンを放棄してタイ国境の山岳地帯へと逃走しました。この時、ベトナム軍に支援された「カンプチア救国民族統一戦線」は、プノンペンを開放し、カンプチア人民共和国(ヘン・サムリン政権)の樹立を宣言しました。ポル・ポト政権下の3年8ヶ月間は、「住民虐殺問題」・「難民問題」と今尚精神的外傷として国民の記憶に刻み込まれています。

タイ国境でゲリラ活動を展開する民主カンポチア勢力は、ソン・サン派、シハヌーク派と共に反ベトナムの「民主カンポチア連合政府3派」(中国とASEANが支援・支持)を発足させ、ヘン・サムリン政権(ソ連とベトナムが支援・全土を実効支配)と対峙したため、1982年以降カンボジアには2つの国家が存在することになりました。両政権による内戦の長期化、2重政権状態の継続(カンボジア問題)は、東西対立に加え社会主義国家間の対立も絡み紛争解決は困難を極めました。

1987年後半からカンボジア和平に向けた活動が積極化して、紛争当事者間の初めての協議開催、関係各国含む国際会議開催・継続、そして、1989年以降のソ連崩壊・東西対立解消、中越関係改善等の国際環境改善を受けて、1990年9月のジャカルタ会議で、カンボジア4派による「カンボジア最高国民評議会(SNC)」のプノンペン設置案が合意されました。翌年10月に、19ヶ国代表により「パリ平和協定(注8)」が締結され、内戦の終結と総選挙の実施が決定されました。

 

 

○新生「カンボジア王国」の誕生と平和・経済再建への歩み

1991年11月、シハヌーク殿下の13年ぶりの帰国で、カンボジア最高国民評議会(SNC)が発足、翌年3月に国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が誕生して、新政権樹立を支援するための活動(注9)を展開しました。そして、1993年5月に政権議会選挙が実施されました。9月には新憲法公布と約23年ぶりとなる統一政権によるシハヌーク国王を国家元首とする新生「カンボジア王国」が誕生し、平和・経済再建への歩みをはじめました。

新政権は、第1党フンシンペック党(ラナリット第1首相)と第2党人民党(フン・セン第2首相)の連立政権で構成されているため、権力闘争も多く不安定な運営の中で1997年7月の軍事衝突で、人民党が全土を制圧、ラナリット第1首相を追放、フン・セン第2首相が実権を掌握するという政変が発生しました。この結果、連立政権のふたり首相制という権力配分策が実質的に破綻しました。国際社会からの批判・国際援助停止等を受けて、1998年に自由で公正な選挙の実施を約束しました。

1998年7月の選挙で、第1党に躍進した人民党と第2党フンシンペック党の妥協が成立(シハヌーク国王仲介)して、フン・セン首相の連立政権が発足しました。また、ポル・ポトの死亡(1998/04)、主要幹部の投降(1998/12)等によってクメール・ルージュがほぼ解体し、1951年以来のカンボジア共産主義運動に終止符が打たれました。以降、フン・セン首班の連立政権による政権運営が継続して、国家インフラ整備(物理的インフラ基盤・法律の支配・政権運営の透明性等)等に課題が残るものの、国家再建・経済復興に向け努力が続けられています。

 

 

◆カンボジア王国の歴史

歴史年表
年代 カ ン ボ ジ ア 王 国 備   考
< 王国の起源、そしてアンコール朝の繁栄と衰退 >
 
  • 1世紀:メコン川下流域(ベトナム南部)に扶南王国(インド文明)台頭(〜7世紀前半)
  • 6世紀末:メコン川中流に真臘(クメール)勃興、扶南を吸収してカンボジア平原を平定(ジャヤバルマン1世時最大版図:657年〜681年)
  • 705年:真臘、陸真臘と水真臘に分裂、弱体化。8世紀にジャワ王国(シャイレンドラ朝)支配下に
  • 802年:ジャヤバルマン2世即位、ジャワ王国より独立。アンコール朝(クメール朝)創設
  • 9世紀:ヤショーバルマン1世、アンコールに王都建築
  • 1113年?〜1150年?:スールヤバルマン2世の治世、チャンパ王国や大越国(ベトナム)を侵略、領土を拡大。アンコール・ワットをはじめヒンズー教寺院を建立。
  • 1181年〜1218年?:ジャヤバルマン7世の治世。アンコール朝の最盛期、インドシア半島の大半を支配アンコール・トム造営。仏教寺院を建設
  • 1432年:シャム(タイ)のアユタヤ朝の攻撃で、アンコール王都を放棄
  • 1474年:シャム(アユタヤ朝)の宗主権を認める
  • 1758年:ベトナムの宗主権に入る
  • 1775年:シャムの宗主権に入る
  • 1806年:ベトナムの宗主権を認める
  • 1835年:ベトナム、カンボジアを占領し鎮西府を設置(政務はベトナム人高官が)
  • 1841年、ベトナム、カンボジアを併合
  • 1845年:カンボジア人、ベトナムの支配へ各地で反乱
  • 1847年:アン・ドゥオン王即位、一時的に平和が到来
  • 2世紀末:ベトナム中部にチャンパ王国(インド文明)興る
  • 938年:ベトナム、中国から自立(紅河下流のベトナム北部地域を拠点に)。中国軍を破りディーン王朝(939年)を開く
  • 1010年:ベトナム、ハノイに遷都
  • 1299年:アナトリアにオスマントルコ興る
  • 1351年:タイにアユタヤ王朝興る
  • 1353年:メコン川中流に、タイ系民族ラオ人(ラオス人)がランサン王国建国(16世紀に絶頂期)
  • 1471年:ベトナム、チャンパ王国を事実上滅亡に
  • 17世紀前半:インドシナ半島各地に日本人町栄える
  • 17世紀:オランダインドネシアのジャワ島西部を支配、以降植民地化拡大
  • 18世紀始め:ランサン王国、ルアンプラバン王国他2ヶ国に分裂(王位継承の対立)
  • 18世紀:ベトナムの南進、メコン・デルタに進出
  • 1795年:ハワイ王朝誕生
  • 1827年:ラオス、ルアンプラバン王国以外、シャム(タイ)に併合
< フランスの進出と植民地の時代へ >
 
  • 1853年:アン・ドゥオン王、駐シンガポール仏領事に援助を要請
  • 1860年:仏人博物学者アンリー・ムオが、アンコール遺跡群を調査
  • 1863年:カンボジア(ノロドム王)、フランスの保護国に(08)
  • 1865年:仏教僧 プ・コンボの反乱。フランス抵抗運動(〜1867年)
  • 1867年:プノンペンに遷都
  • 1884年:仏・カンボジア協約(仏の支配強化)調印(06)。官吏を中心に各地で住民の反仏蜂起(1884/11〜1887/01)

  • 1887年:カンボジア、フランス領インドシナに編入





  • 1907年:仏・シャム条約。バッタンバン・シェムリアップ・シソポンなど諸州が仏領となる

  • 1925年:仏・シャム通商航海条約、カンボジアとの国境確認(02)
  • 1858年:仏のベトナム侵略、本格化(ダナン攻撃、1859年:サイゴン占領)
  • 1866年:紅華島武力衝突(仏・朝鮮)
  • 1867年:仏、ベトナム南部を植民地化
  • 1868年:日本、明治維新
  • 1884年〜1885年:清仏戦争(ベトナム宗主権争奪)後、仏、ベトナムを保護国化
  • 1887年:仏領インドシナ連邦成立
  • 1893年:仏、ラオスを保護国化
  • 1894年:日清戦争(〜1885年)
  • 1899年:ラオス、仏領インドシナ連邦編入
  • 1900年:米国、ハワイ併合
  • 1910年:日本、韓国併合
  • 1923年:トルコ共和国独立
  • 1930年:ベトナム共産党(インドシナ共産党)結成
< 第2次世界大戦勃発と日仏の共同支配下へ >
 
  • 1940年:クメール・イサラク委員会結成
  • 1940年:タイ、カンボジア西北部3州の返還要請(09)。国境で両軍衝突、全面戦争へ(11)
  • 1941年:タイ仏印戦争(国境紛争)で、西部(アンコール遺跡含む地域)をタイに割譲(01)
  • 1941年:モニボン王死去、シハヌーク、18歳で王位継承(04)
  • 1941年:仏・タイ平和条約(東京条約)。国境を1904年以前に戻すこと合意(05)
  • 1941年:日・仏印共同防衛議定書調印。日本軍、カンボジアに進駐(07)。プノンペン入城(08)
  • 1942年:僧侶2000名、住民数千人、プノンペン市内をデモ
  • 1943年:カンボジア文字のローマ字化命令(08)
  • 1944年:カンボジア暦廃止(07)
  • 1945年:日本軍の仏印処理(仏印軍武装解除)で植民地政権打倒、シアヌーク国王、「独立」を宣言(03)
  • 1945年:文部大臣、カンボジア暦復活、ローマ字化廃止指示(03)。ソン・ゴク・タン内閣成立(08)
  • 1939年:第2次世界大戦勃発
  • 1940年:日本軍、北部仏印進駐(09)
  • 1941年:ベトミン(ベトナム独立同盟会)結成(05)
  • 1941年:日本軍、南部仏印進駐、日仏共同支配(07)
  • 1941年:アメリカ、対日石油全面禁輸(08)
  • 1941年:太平洋戦争開戦(12)
  • 1943年:日本軍、オランダ植民地政権打倒、インドネシアを軍政下に(03)
  • 1945年:ベトナム北部で飢饉発生、200万人餓死(01〜05)
  • 1945年:ラオス、ルアンプラバン王国のシーサワンウォン王、独立を宣言(04)

  • 1945年:日本、無条件降伏(08)
< 戦後のフランス支配復活と独立への歩み >
 
  • 1945年:英仏連合軍、プノンペン進駐。フランス、カンボジアに復帰(10)。シアヌーク王、独立宣言を取消す(12)
  • 1946年:仏・タイ協定。タイ、1941年に併合した領土返還
  • 1947年:自由カンボジア(クメール・イサラク)政府樹立(09)
  • 1948年:クメール人民解放委員会結成(02)
  • 1949年:フランス、カンボジア王国のフランス連合内での独立承認(11)
  • 1950年:クメール・イサラク統一戦線(臨時抗戦政府、ベトナムと共闘)結成(06)
  • 1951年:クメール人民革命党結成
  • 1953年:カンボジア王国、完全独立達成(11)

  • 1955年:シアヌーク国王退位(父親に王位譲位)(03)、サンクム(人民社会主義共同体)結成(04)

  • 1955年:米・カンボジア、軍事援助協定(05)。日本・カンボジア友好条約締結(12)

  • 1956年:シハヌーク、カンボジアの中立の宣言(02)。人民党への攻撃開始(03)。南ベトナム、国境を封鎖(03)

  • 1956年:中国・カンボジア経済援助協定調印(05)。ソ連と外交関係開設(05)
  • 1945年:ベトナム8月革命(ハノイ市全面開放)(08)
  • 1945年:ベトナム民主共和国(指導者:ホー・チ・ミン)、独立宣言(09)
  • 1945年:ラオ・イサラ臨時政府(ラオス・独立派)樹立(10)
  • 1946年:第1次インドシナ戦争本格化(12)
  • 1949年:ラオス王国、フランス連合内の独立国に(07)
  • 1949年:中華人民共和国成立(10)。インドネシア共和国独立(12)
  • 1950年:アメリカのフランス支援本格化(03)。朝鮮戦争勃発(06)
  • 1951年:日本独立
  • 1954年:ベトナム、ディエンビエンフーの戦い(03〜05)
  • 1954年:インドシナ戦争に関するジュネーブ協定でベトナム、南北分断。ラオス、北部2州を左派勢力に。仏撤退(07)
  • 1955年:ベトナム共和国(南ベトナム、資本主義国家)成立(10)
<ベトナム戦争と干渉、果てしない内戦へ>
 
  • 1958年:中国承認、外交関係開設(07)。対タイ外交関係断絶(11)
  • 1959年:日本と経済技術協力協定(03)
  • 1960年:シハヌーク、カンボジア・ラオスを中立緩衝地帯と提案(09)。カンボジア・中国、友好不可侵条約・経済援助等調印(12)
  • 1961年:タイと断交(10)
  • 1963年:ポル・ポト派、人民革命党の指導権掌握(共産党)
  • 1964年:ソ連、カンボジア軍事援助を開始(02)。中国、カンボジア軍事援助を開始(03)。南ベトナム軍の侵入を国連安保理提訴(05)
  • 1965年:米国と外交関係断絶(05)
  • 1967年:シアヌーク、中国文化大革命批判(03)。中国との関係悪化(09)
  • 1970年:反中親米のロン・ノル将軍のクーデター(シハヌーク追放)・反ベトナムキャンペーン開始(03)、米軍と南ベトナム政府軍のカンボジア侵攻(ホーチミン・ルート粉砕)・米軍のカンボジア空爆拡大、クメール・ルージュ(ポル・ポト等親中共産主義勢力、シハヌークを支援)と内戦開始(04)。米軍、カンボジアから撤退(06)。ロン・ノル将軍、クメール共和国樹立を宣言(10)
  • 1971年:米軍、カンボジアの内戦に直接介入(01)。カンボジア、軍事独裁体制宣言(10)
  • 1973年:米軍、カンボジアから撤退(03)
  • 1975年:ロン・ノル政権崩壊ポル・ポト派の支配(同政権下で大量の自国民虐殺)はじまる(04)
  • 1976年:民主カンプチア成立(01)。中国と経済・科学・技術協定調印(12)
  • 1977年:ベトナムとの国境戦争本格化(12)
  • 1978年:ベトナムと国交断絶(01)。ベトナム軍、亡命カンボジア難民から救国統一戦線結成、プノンペン侵攻(12)
  • 1979年:ベトナム軍の侵攻でポル・ポト政権崩壊、カンプチア人民共和国(ベトナムが支援。親ベトナムのヘン・サムリン政権)成立(01)
  • 1982年:民主カンボジア三派連合政府(シハヌーク、ポル・ポト派、ソン・サン派)樹立(07)、タイ国境地帯で内戦継続
  • 1983年:ベトナム軍、ポル・ポト派拠点を攻撃(02)
  • 1984年:ASEAN外相会議、ベトナム軍駐留非難決議(07)
  • 1985年:ベトナム軍、民主カンボジアの拠点陥落(01)。シハヌーク派拠点制圧(03)
  • 1988年:ベトナム軍、カンボジア撤収開始(06)。カンボジア問題、5者ジャカルタ会議(07)
  • 1989年:アンコール遺跡、竜巻の被害(08)。ベトナム軍、カンボジアから撤退(09)
  • 1990年:カンボジア和平東京会議(06)
  • 1957年:ラオス、第1次連合(王国政府・愛国戦線(パテト・ラオ))政府成立
  • 1959年:ハワイ、米国50番目の州に(08)。北ベトナム、ラオス侵入(09)
  • 1960年:南ベトナム解放民族戦線(北ベトナムが組織、中国、支援)結成(12)
  • 1962年:ラオスに関するジュネーブ協定、第2次連合政府成立
  • 1963年:南ベトナム軍事クーデター、ジエム政権打倒(11)
  • 1963年:ラオス、第2次連合政府崩壊、内戦再開
  • 1964年:トンキン湾事件(08)
  • 1965年:米軍戦闘部隊、ベトナム戦争に参戦(03)
  • 1967年:東南アジア諸国連合(ASEAN)成立(08)
  • 1971年:南ベトナム軍、ラオスに侵攻(02)
  • 1972年:南ベトナムで春季大攻勢(03〜05)
  • 1973年:ベトナム和平パリ協定締結、米軍撤退(01)。ラオス和平議定書調印(09)
  • 1974年:ラオス、第3次連合政府成立。ハワイ初の日系人知事誕生
  • 1975年:南ベトナム崩壊、ベトナム戦争終結(04)
  • 1975年:ラオス人民民主共和国成立(12)
  • 1976年:ベトナム統一宣言、ベトナム社会主義共和国発足(07)
  • 1978年:ベトナム・ソ連友好協力条約(中国と対立)締結(11)

  • 1979年:中越戦争(中国軍、ベトナムを攻撃)(02〜03)

  • 1983年:ラングーン爆破テロ(韓国閣僚等)(10)、ビルマ、北朝鮮と断交(11)

  • 1986年:ベトナム共産党、ドイモイを提唱(12)

  • 1989年:ベルリンの壁崩壊
<王国の復活と平和の模索>
 
  • 1991年:カンボジアに関するパリ和平協定締結(10)。シハヌーク殿下、13年ぶりにプノンペンに帰国。カンボジア最高国民評議会(SNC)発足(11)
  • 1992年:UNTC(国連カンボジア暫定統治機構)発足(03)。日本初のPKO本体がカンボジア入り(10)
  • 1993年:国連暫定統治機構(UNTAC)のもと総選挙実施(05)。カンボジア王国復活、シハヌーク、国王に。ラナリット第一首相(フンシンペック党)、フン・セン第二首相(人民党:旧プノンペン政権)の2人首相制連立政権成立(09)
  • 1994年:人民党チャクラボン殿下派、クーデター未遂事件。クメール・ルージュ非合法化法可決(07)
  • 1995年:カンボジア、ASEANオブザーバに(07)。米国と国交樹立(08)。フン・セン第2首相暗殺未遂事件、シリヴット殿下、フランス亡命(11)

  • 1996年:バッタンバン州で武力衝突(フンシンペック党と人民党)(11)
  • 1997年:プノンペンで軍事衝突(フンシンペック党と人民党)、人民党全土制圧、ラナリット第1首相追放、フン・セン第2首相実権掌握(07)

  • 1998年:ポル・ポト、山中で死亡(04)。総選挙実施(07)。第1次フン・セン首班の連立政権樹立(11)。ポル・ポト派幹部投降、国民へ謝罪(12)

  • 1999年:上院新設、2院制へ移行(03)。ASEAN(東南アジア諸国連合)加盟(04)

  • 2001年:ポル・ポト派幹部(70年代のカンボジア大虐殺に関与)を裁く特別法廷設置(01)

  • 2003年:プノンペンで反タイ運動(01)。国民議会選挙(07)

  • 2004年:第2次フン・セン首班の連立政権樹立(07)。WTO加盟(10)。シハヌーク退位、息子のノロドム・シハモニが国王に(12)

  • 2006年:上院議員選挙(01)

  • 2007年:日本と「投資の自由化、保護及び促進に関する協定」(06)。原油探査進むカンボジア、港湾都市シアヌークビル南西沖約145キロのタイ湾(07)。ヌオン・チア元議長を拘束、ポル・ポト派特別法廷(09)。キュー・サムファン元幹部会議長(ポル・ポト派)を拘束。ポル・ポト裁判が初の公開審理(11)

  • 2008年:日本、メコン川流域開発(ベトナム、カンボジア、ラオスの3カ国の国境地帯の開発)に2000万ドルのODA拠出を表明(05)。大虐殺裁く特別法廷、ようやく9月に開廷(日本など資金援助)(06)。カンボジアのクメール寺院プレアビヒア世界遺産登録決まる。→タイ軍侵入で21日にカンボジアと協議、越境兵士が倍増、400人に。→ASEANの調停は先送り、カンボジア−タイの遺跡領有権問題→カンボジアのフン・セン首相、国境紛争「騒乱避ける」(07)
  • 1991年:ベトナム、中華人民共和国と国交正常化(11)。ソ連邦崩壊(12)
  • 1992年:ロシア市場化政策導入(価格自由化)(01)。ロシア民営化(06)
  • 1993年:欧州共同体(EU)発足(11)。ハワイ王朝転覆100周年記念式典
  • 1994年:アフガン、大規模内戦再発(01)
  • 1995年:ベトナム、米国と国交樹立。ベトナム、ASEANに正式加盟(07)
  • 1996年:タリバン、アフガニスタンの首都カブールを制圧(09)
  • 1997年:アジア通貨危機(07)
  • 1998年:印パ、地下核実験(06)
  • 1999年:アフガニスタンで内戦再開(03)
  • 2000年:韓国・北朝鮮、南北共同宣言(金大中、金正日両首脳)(06)
  • 2001年:米国同時多発テロ発生(09)。米英軍、アフガニスタン空爆開始(10)。アフガンのタリバン政権崩壊(12)
  • 2002年:東ティモール共和国、インドネシアより独立(05)。日朝首脳会談、平城宣言(09)。バリ島でテロ発生(10)
  • 2003年:第2次湾岸戦争、イラク政権崩壊(03)。北の核、日米韓中露朝6者会議(08)
  • 2004年:スペイン、マドリードで列車同時爆破テロ(03)。スマトラ島沖地震、大津波被害(12)
  • 2005年:ロンドンで同時多発テロ発生(07)。トルコ、EU加盟交渉開始(10)
  • 2006年:インドで同時列車テロ発生(06)。タイで軍事クーデター、タクシン政権崩壊(09)。北朝鮮、地下核実験(10)
  • 2007年:インド、中国に届くミサイル実験(04)。パキスタン軍、回教寺院へ突入(07)。ミャンマーの民主化デモ武力弾圧(09)。北朝鮮の核問題、6者会議で合意(10)。ASEAN、憲章採択、アジア初の共同体構築へ(11)
  • 2008年:コソボ独立宣言(02)。中国、チベット騒乱拡大(03)。中国、四川省で大地震(05)。南オセチアで、グルジア・ロシア武力衝突(08)

 

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◆カンボジア王国の経済概況

○カンボジア経済の歩み

カンボジアは、典型的な農業国(就業人口の約8割は農民)で、1960年代は食糧自給(ご参考:世界の農業生産性の停滞)を達成し、米やゴムなどの作物を輸出していました。しかし、1970年代以降は、継続する内戦とポル・ポト時代の社会経済インフラの破壊によって経済壊滅状態におちいりました。1980年代にソ連・東欧諸国・ベトナムなどから、経済・人的援助を受けながら社会復興・国家再建を進めましたが、援助規模も少なく、米・ゴムの生産回復を除き期待通りには進みませんでした。1989年以降は、ソ連崩壊などから援助は停止され、財政は困窮し、またインフレ率の上昇(1989年:50%→1990年:100%→1991年:150%)により国民生活が逼迫しました。

1991年に国連の関与が決定され、1992年3月以降西側諸国からの復興援助(国家歳入の約半分)も本格化して、社会基盤(道路・橋・上下水道等)の整備、市場経済化の進展が進み、国内総生産(GDP)の成長率も急拡大(1993年:4.1%→1995年:7.6%)し、インフレ率も低下(1992年:113%→1995年:3.5%)、経済復興の軌道に乗りだしました。しかし、1997年7月の両首相による武力衝突・政変により、外国の援助が一時停止して再度の経済悪化に落ち込み、実質経済成長率も急低下(1996年:6.5%→1998年:2.1%)しました。

その後1998年及び2003年の総選挙を経て成立した、フン・セン首相を首班とするカンボジア政府は、様々な課題を抱えつつも安定した政権運営(注10)を行い、経済も徐々に回復(2004年:10%→2005年:13%→2006年:10%)してきています。フン・セン首相は、ODA依存(国家予算の3割に相当)からの脱却、海外直接投資の誘致、経済発展(注11)と産業育成(注12)を最重要政策目標として、外国投資を優遇する投資法の策定、経済特区(SEZ)の設置等努力をしていますが、安価な労働力などの好条件がある反面、物理的インフラの整備、法の支配の確立、透明性のある行政運営、最近のインフレの影響(2007年:5.8%→2008年:推定9.0%)、特に食料品・燃料価格高騰等、依然として課題は山積しています。

 

 

○カンボジア王国の外交政策

外交政策は、中立、非同盟、世界の国々との平和的共存を原則としています。そして、外交政策上の最優先課題として、社会経済発展のための経済支援の獲得や、貿易・投資・観光の促進カンボジア旅行いって来ました。貢献)を目指しています。そのために国際社会への統合、各国との二国間・多国間関係の強化(注13)を計っています。

 

◆カンボジア王国と日本の関係

○経済協力

日本は、最大の援助供与国であり、2006年度までの援助実績は、円借款約160億円、無償資金協力約1160億円、技術協力約392億円(2005年度まで。JICA経費実費ベース)となっています。具体的な援助重点4分野は、(1)持続的な経済成長と安定した社会の実現、(2)社会的弱者支援、(3)グローバルイシューへの対応、(4)ASEAN諸国との格差是正のための支援としています。

○文化関係

1993年10月、「アンコール遺跡救済国際会議」(東京)を開催。以降、アンコール遺跡保存修復国際調整委員会において、例年仏と共に共同議長を務めています。また、1994年よりユネスコ文化遺産保存日本信託基金により、日本国政府アンコール遺跡救済チーム(JSA)を通じて、アンコール遺跡の保存修復活動を実施中。第1期及び第2期事業期間中、延べ700名を超える日本人専門家が現地に派遣され、約200名のカンボジア人スタッフと共同で、保存修復活動に従事した。2005年より第3期事業を実施中(5カ年計画)。

○その他

 

◆語句の説明

アンコール・ワット(世界遺産) 旅行写真
12世紀前半のスールヤバルマン2世によって造営されたヒンズー教の寺院(その後、仏教寺院としても使用)。南北1300m、東西1500mに達する大寺院で、クメール芸術の代表的建造物です。アンコール朝の繁栄を象徴、世界遺産として登録されました。仏人博物学者アンリ・ムオが、1860年に密林の中で発見しました。
アンコール・トム(世界遺産) 旅行写真
9〜15世紀のアンコール朝の都城(高さ約8mのラテライト城壁で囲まれ、全周約12Km)の遺跡。その中心部にあるバイヨン寺院(仏教寺院)は、同朝の最盛期を築いたジャヤバルマン7世の時代(12世紀末〜13世紀末)に建造されました。
中越戦争(1979年)
ベトナム軍が、ポル・ポト政権をプノンペンから追放すると、中国は「懲罰」と称して、ベトナム北部の国境地帯全域で、ベトナム側に大規模な軍隊を侵入させました。この戦争は、ベトナムのカンボジア侵略と写り、国際的に孤立する結果となりました。戦争の背景には、ポル・ポト政権の国内での大量虐殺と、ベトナム国境への攻撃があり、また、この政権を中国が支援していることがありました。更に、中ソ対立・米中接近という政治情勢と、ベトナム・ソ連の友好という事情も働いていました。
ベトナムのドイモイ(刷新)運動
1986年の共産党大会で提唱。「貧しさを分かちあう社会主義」から決別して、豊かな暮らしを求める改革を志向。長年の食糧輸入国より世界第3位の米輸出国に復帰した、1989年ころより現実経済にその効果が現れ、1991年以降、ベトナム経済は、年率8%前後の高度経済成長を実現することになりました。
クメール・ルージュ(KR)裁判
1970年代後半のクメール・ルージュ(民主カンボジア)政権下で行われた、自国民の大量虐殺の罪を裁くため、国連の支援を受けてカンボジア国内裁判所に設置される特別法廷。2006年7月に司法官による宣誓式が行われました。また、同年6月の内部規則の採択を受けて、7月に本格捜査が開始し、2007年11月までに、ヌオン・チア旧ポル・ポト政権国民議会議長、イエン・サリ同政権外交担当副首相、キュー・サンパン国家幹部会議長等被疑者5人が拘束(逮捕)されました。日本は、同裁判費用(総額約56百万ドル)の国連負担分(3年分:43百万ドル)のうち、約半分にあたる21.6百万ドルを拠出し、カンボジア政府負担分予算には295万ドルの支援を実施しています。また、上級審判事として野口検事を派遣する等、裁判実施に多大な貢献を行っています。特別法廷側は、追加予算の必要性及び裁判期間の長期化を示唆しています。
カンボジアの市場経済化
1990年以前は、国際援助も乏しく社会経済分野の復興も思うように進まず、生活水準は貧困ライン近辺にあり、人々の間に経済的格差を実感させるものはありませんでした。ところが、ヘン・サムリン政権が、1991年以降、社会主義計画経済から市場経済システムへ本格的に移行すると、国際援助の急増とも相まって、それに続くUNTAC活動期には、都市部を中心に経済活動も活発化していきました。この結果、国民全体が貧しい時代は終わり、人々の中に所得格差と階層分化が生じていきました。新政権にとって、これらの現代的問題(都市人口急増・スラムの発生・ゴミ処理問題・地価高騰・都市農村間の所得格差・貧富の差・汚職と腐敗・人材不足)の解決は、大きな課題となっています。
カンボジアの民族と宗教
カンボジアの総人口は、約13.8百万人(2005年)。その内9割がクメール人(カンボジア人)で、他は約20あまりの民族(チャム族約20万人、ベトナム人約10万人、華僑約5万人等)で構成されています。1970年以前には、華僑は約25万人、ベトナム人は約30万人が居住していたとされるため、人口構成の変化は、ポル・ポト政権時代の、治世との関係があると思われます。クメール人の8割以上は、一般的に、家族経営を主体とした稲作農業に従事して、1〜3ヘクタールの土地所有しています。家族形態は、夫婦と未婚の子供たちからなる核家族(5〜7人程度)が一般的で、結婚後の男女は、一時的に妻の住居に同居して、子供の誕生後に土地の一部を均等に相続して、独立することが多いとのことです。クメール人の大半が上座部仏教を信仰しており、特に農村部のクメール人は、敬虔な仏教徒です。1ヶ月に4日ある「トゥガイ・セル(仏日)」には寺院詣でを欠かさず、僧侶にお布施を行い徳を積みます。成年男子による一時出家の慣行も盛んで、寺院で修行を積むものは多いといわれています。
カンボジアの受難の時代(ポル・ポト時代)
民主カンポチア(ポル・ポト政権:共産主義)時代の3年8ヶ月は、カンボジア人に最も衝撃を与えた期間でした。指導者たち(クメール・ルージュ)は、従来の生活習慣、社会制度、行政組織、経済活動、都市生活、学校教育など一切を否定しました。特に、すべての宗教活動の禁止ばかりか、多数の仏教寺院やモスクを破壊し、多くの僧侶やイスラム教徒(チャム族)を虐殺しました。そして、ベトナムとの紛争(国境問題・ベトナム人虐殺・中ソ対立等)から、ベトナム軍の侵攻(1978/12)を招き、以降10年以上に渡る2重政権下(ベトナム軍が支援するヘン・サムリン政権との間で)での内戦状態で、国土は荒廃・多くの人命を失うことになりました。

 

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◆出典

○外務省:「各国・地域情報」。「資料・統計」

○総理府統計局:「日本統計年鑑」。「世界の統計」

 



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