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台湾の歴史 去来する統治者 (〜1945年)

台湾の概要    歴史概観    歴史年表 

 

台湾の概要

台湾は日本の琉球諸島の西方海上に位置(与那国島から約110Km)し、台湾最西端の小金門島より約6Kmで中国(歴史参照)に接している。面積は約3.6万平方Km(日本の九州相当)で、本島の他、澎湖諸島、金門諸島より構成される。地勢は山地、丘陵地が三分の二を占める山岳中心地形となる。

気候は南北に細長い(約394Km)地形から、北は亜熱帯、南は熱帯地域となる。5つの山脈が南北に縦走する高山地域は1年を通して冷涼で、阿里山(標高2406m)でも最高気温は19度C程度である。ちなみに、台北の平均気温は、およそ16度C(1月)から29度C(7月)となっている。

人口は約2343万人(2014年11月末)で、都市人口の多い順に、新北市(約396万人)、高雄市(約278万人)、台中市(約272万人)、台北市(約270万人)、桃園市(約206万人)、台南市(約188万人)となる。民族構成は、約98%を漢民族が占め、その内の約85%を本省人(日本統治以前から台湾に居住)が占める。使用言語は民主化、独自文化見直しの中、国語(台湾移住国民党軍使用北京語)、台湾語(福建省南部移住者)、客家語(広東省北部移住者)、原住民語の教育が義務化された。また、主要宗教(2013年)は道教(約82万人)、プロテスタント(約40万人)、カトリック(約18万人)となっている。

 

台湾の歴史概観(〜1945年)

○オランダ(蘭)の支配

明朝中期の台湾(旅行体験)は、明朝の海禁(貿易・漁業の制限)政策の影響で、南部地域は、倭寇・海賊等の仲介貿易の基地となった。同時に、対岸華南住民の移住と開墾も始まった。大航海時代のアジア、日中貿易に先行したポルトガル歴史参照)は、倭寇討伐等で明朝に協力、マカオの通商定住許可(1557年)を得て、その後1世紀に渡り、明朝の官業貿易を独占、利益を享受した。

また、フィリピンのマニラ(1571年占領)を拠点に太平洋横断貿易(華南・マニラ・メキシコ・スペイン)を意図するスペインは、オランダの南台湾占拠(1624年)に対抗するため、鶏龍(1626年)、淡水(1629年)に築城、台湾北部を占拠し対峙した。

一方、出遅れたオランダ歴史参照)は、東インド会社を設立(1600年)、アジア経営の推進母体として参入を図るが、明朝とポルトガルの抵抗に合い頓挫、妥協した。マカオ攻撃の失敗(1602年)、澎湖諸島の占拠・撤退(1603年)、再度の澎湖諸島攻撃(1622年)で、撤退を条件に「台湾占領の不干渉」を得て、築城(1624年)、台湾南部を占有した。

海賊集団の鄭芝竜は、明朝の要請(1628年)で協力(官位を得て、海上防御)を受諾、海寇を帰討、勢力を拡大した。福建省民数万人を報償金付で移住させ(1628年)、開拓を促進し、勢力を保持しつつ、オランダとは共存した。この結果、台湾は、従来より西部の嘉義周辺を支配する海賊・武装貿易集団(鄭芝竜他)とスペイン(旅行体験)、オランダの3グループが並存して支配することになった。

スペインは、中継貿易拠点の成果も限定的な中、国力の衰退と共に、台湾北部経営も消極的となった。この機に乗じたオランダは、艦隊を派遣して、スペインを台湾北部より駆逐(1642年)した。台湾を領有したオランダは、大陸より大量の移民を招き(1648年)、時に圧制に苦しむ農民の反乱(1652年、郭懐一の武力蜂起)もあったが、原住民ともども開拓を促進させた。

また、大陸中国では、明朝末期に、女真族が満州に後金国を建国(1616年)して明朝支配から独立した。その後、朝鮮半島(歴史参照)、モンゴルを領土に組入れ大清国(1636年)とした。明朝は農民一揆で滅亡(1644年)し、これに乗じた清朝は、北京を占領、全中国の支配者となり、華南一帯の残存勢力「南明」と対峙した。

明朝と協力関係にあった鄭芝竜一族は、清朝との折衝の中、監禁・人質とされる(1646年)が、息子「鄭成功」は、屈服せず「反清復明」運動に奔走した。懐柔困難とみた清朝は、人質の一族を斬首(1661年)した。大陸での抵抗が困難となった鄭成功は、再起の拠点を地元台湾に求め、オランダ軍と交戦(1661年)、台湾より駆逐(1662年)した。大陸中国の政権交代の余波を受け、オランダの台湾統治もここに終焉した。

 

○鄭一族の支配

オランダより支配権を奪取(1662年)した鄭成功は、台湾を「東都」と称し、行政府を台南に置く初の漢人政権を樹立した。短命だった父成功の後を継いだ鄭経は、大陸中国より撤収・帰還し、「東都」を「東寧」と改称(1662年)、明朝の文教政策を持ち込むと共に、オランダと同様、開拓の推進と海洋貿易国家としての発展を図った。帰順に応じない鄭政権をみて、海軍力に限界がある清朝は、台湾攻略を放棄した(1665年)ため、清国の遷界令(海禁)の中、大陸との蜜貿易も独占して繁栄を極めた

大陸で清朝の廃藩政策に反旗を翻した三藩の乱(反清復明運動)が勃発(1673年)、要請に応じ鄭経も参戦(1674年)したが、泥沼の混戦の中、反乱軍は平定され、鄭経は台湾へ撤退(1680年)した。翌年病没した鄭経の継位内紛の中、鄭政権は清国に無条件降伏をした(1683年)。清朝は、ここに中国全土の支配を確立した。

 

 

○清朝の台湾経営

鄭政権を降伏(1683年)させた後、台湾を福建省に隷属させ、1府(台南)3県(台南、高雄、嘉義)を設置し統治した。治安と秩序の観点から、大陸からの渡航を許可制にしたが、時と共に形骸化して移住者が増加、開拓が進みやがて1府4県2庁制(1723年)となった。

漢人系移民の開拓が平野部から山地・辺境に進むと、紛争も頻発して、先住諸民族との生活圏調整、伝統的生活様式の保護が必要となった。併合直後は、平埔族への漸進的な同化政策が主で、帰属した蕃社(蕃人の部落)が53社(1715年)であった。蕃人保護と境界画定を目的とした理蕃政策が策定(1729年)され、同化政策(蕃童の漢文教育、弁髪漢服の普及、漢人姓の授与等)もあわせ推進されたが、効果は薄かった移住民増大の流れは抗し難く、理蕃庁を創設(1766年)、南北両路(各々22社、72社)でそれぞれ管轄、統治した。

およそ1世紀に及ぶ清朝の隆盛も、19世紀半ばの欧米列強による植民地分割競争の激化で、徐々に衰退の兆候も見え出した。列強による内部干渉、外患にさらされる中、再起の策として清朝は、洋務運動(富国強兵運動)を展開(1856年〜)した。台湾への洋務運動は、防衛力強化(電線敷設、兵制再編、砲台構築)、インフラ整備(道路開通、行政刷新)、産業育成(南東部山地開発、鶏龍一帯の石炭採掘、鉱物資源調査)等がその先駆けとなった。

福建省から独立して台湾省が設立(1885年)、初代台湾巡撫に劉銘伝が任命(1886年)され、ここに台湾の本格的な洋務運動が始まった。主力政策は、防衛力強化と強兵の軍政事項と、財政力強化(土地調査事業、人口調査)及び産業開発(山地開発、砂糖・樟脳・茶等の特産品開発、貿易振興)の促進、そして、インフラ整備(鉄道敷設、築港、道路開発、郵便制度、電灯架設)の民生事項で進められた。漢族系住民は30万人(1683年)から約9倍の255万人(1893年)に増加、耕地面積は1万8千町歩から約42倍の75万町歩に激増と大きな成果を残したが、劉銘伝の離任(1891年)で以降頓挫した。

 

○内憂、外患に苦しむ清朝

清朝の台湾経営が進む中、理蕃政策下の統治への不満が、台湾全土に拡大した朱一貴の乱(1721年〜23年)を誘発し、またその後も、天地会(反清復明の秘密結社)弾圧に関連した、林爽文の乱(1786年〜88年)や戴潮春の乱(1862年〜64年)と大規模な反乱が続き、その対応に清朝も苦慮した。

また、大陸本土ではアヘン戦争(1840年)後の清朝社会の混乱の中、キリスト教信仰の組織を束ねる洪秀全が大農民反乱を興し、南京を都に太平天国(滅満興漢)という独立国家を樹立(1851年〜64年)し、最盛期には中国全土の半分を占拠した。清朝は列強とのアロー戦争(1856年〜60年)に敗北し、太平天国軍を鎮圧する軍事力が乏しい中、郷勇などの漢人勢力(義勇軍)や、列強外国軍(英・仏・米他)の協力(反乱軍の強い民族主義を嫌い)によって太平天国軍を壊滅した。

19世紀半ばに入り、凋落の気配も見え出した清朝に、欧米列強外患干渉が繰り返された。その中で台湾が関連する部分を列記すると、アヘン戦争けん制で英国艦隊が台湾近海を遊弋(1840年頃)、米極東艦隊ペリー司令鶏龍(台湾北部)寄港(1854年。炭鉱・港内調査)、天津条約で台南等開港(1858年)、プロシア船南部少数民族部落砲撃・侵攻(1860年)、米軍艦南部少数民族部落砲撃・侵攻(1867年)、樟脳紛争で英軍艦安平砲撃(1869年)、日本琉球処分で台湾出兵(1874年)、清仏戦争(1884年〜85年。清朝敗北、ベトナム宗主権放棄)で波及、台湾北部攻撃等々、台湾防備の必要性が顕在化した。

 



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○台湾の割譲と清朝支配終焉

洋務運動の展開で、清朝の台湾支配が強化される中、牡丹社事件が発生(1871年)した。遭難で琉球住民が台湾南部に漂着、集落牡丹社の先住民に54名が殺害された事件で、日本の明治政府の抗議を、清朝は「化外の民」として責任を回避した。日本は出兵(1874年)して、台湾南部を占領、清朝と交渉の末、賠償金の支払いと琉球が日本の属国であることを間接的に承認させた。以後、台湾への洋務運動が強化された。

しかしながら、台湾の支配は、また、大陸を理由とした事柄で、その支配者を変転させることになった。朝鮮の独立をめぐって争われた日本と清朝の間の戦争である日清戦争(1894年〜95年)は、日本の勝利で収束し、日清講和条約(下関条約)が調印された。清朝は台湾と澎湖諸島、遼東半島(後に三国干渉で清朝に返還)を日本に割譲した。ここに、清国による200年を越す支配が終焉した。

 

 

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○台湾民主国の終焉と抗日ゲリラ鎮圧

日清戦争で割譲された台湾では、日本の領有に抵抗する官僚と有力者による「台湾民主国」の独立宣言が実施(1895/05)された。関与せずの清国の態度で、日本は台北に派兵、列強の干渉も無く失望した台湾民主国軍は逃走、無血入城した。樺山初代台湾総統は、台湾北部基隆沖の船上で、清国と台湾授受の手続きを、完了(1895/06)した。

台湾北部を短期間で占領した日本軍ではあったが、以降の台湾平定作戦で、ゲリラ化した住民の激しい抵抗に遭遇した。激戦の末、中部地区攻略、南部の嘉義占領(10月)、台南入城(11月)を果たし、台湾民主国は崩壊した。日本軍兵力約5万人で、戦死者約164人、戦病死者約4642人の犠牲をはらい、樺山総統は島内の平定を宣言(1895/11)し、民政へ移行(1896/04)した。

しかし、その後も「土匪」と呼ばれる武装集団の武力蜂起が続き総督府は徹底的な武力鎮圧で対処した。第3代乃木総督は、地域の危険度に合わせた「三段警備」を実施(1896年)するも土匪の抵抗は頻発し、「台湾売却論」も浮上した。やがて国籍選択期限が到来(1897/05)し0.2%程度の住民が去ったのを契機に、治安確立に向けて「土匪討伐令(極刑の適用)」を公布(1898年)、あわせ「招降政策(寛大な処置)」も同時に進めた。この結果、土匪勢力を根絶(1902年)し、全島より私有武器を押収して、治安が改善され、総督府の信頼も高まった。

 

○日本の台湾経営

当初、総督府条例(1895/08)により軍政がしかれたが、台湾平定完了で民政に移行(1896/04)した。同時に六三法(立法権付与)も施行され、総督府は行政権・軍権を含む強大な権力を持った。第4代児玉総督と後藤民政長官は、治安維持と地域コミュニティ管理のため「保甲条例」を公布(1898/08)した。保甲(10戸で1甲、10甲で1保)は、警察の管理・指揮下で活動し、日本語の普及、迷信の排除、纏足の開放など、住民の習俗近代化に寄与した。

並行して総督府は、経営基盤整備のための土地調査事業(1898年〜1904年)、人口調査事業(1905年)、文化・風俗等の旧慣調査事業(1901年から20年)も実施した。この調査結果より、耕地面積は2倍の63万甲に、地租も3倍強となった。山地原住民を除く人口も約304万人と判明した。

経済と産業の基盤確立では、貨幣制度の整備と主要産業の近代化に尽力した。総督府は、発券銀行と商業銀行を兼務した台湾銀行を設立(1899年)、多種存在する流通紙幣を、台湾銀行券発行(1904年)後禁止し、統一した。その後、台湾銀行は日本国内、中国沿岸部に出先を開設して、中国・南洋諸島の貿易金融に大きな影響力を持った。主要産業である製糖業の近代化も、日本の新渡戸農学博士を招聘し、その尽力によって台湾は、世界的な糖業王国となった。

 

○台湾のインフラ整備と都市計画

初代樺山総督は、島内の交通網の整備を急務として、道路・鉄道・港湾の建設を急いだ。台湾平定戦時の日本軍の縦貫軍用道路(約440Km)建設(1895年から10ヵ月)に始まり、公道の総距離は約1.1万Km(1905年)、約1.8万Km(1938年)と道幅の拡張も含め拡大した。

清朝時代に、鉄道は既に開通(1893年、台北・新竹間100Km)していたが使い物にならず、島内西側を縦断する縦貫鉄道(北の基隆・南の高雄間404Km)を建設(1899年〜1908年)した。その後、東部の台東線(1915年)、宣欄線(1924年)、西部の屏東線(1941年)、そのほか、淡水線、集集線、平渓線などが開通し、島内の人的交流や物流が拡大した。

清朝時代の19世紀半ばに開港された淡水、基隆、安平、高雄の各港も、大型船舶の停泊が出来ず、近代的港湾建設が必要となった。基隆港(1899年〜終戦まで)、高雄港(1904年〜終戦まで)の築港工事が開始されアジア有数の大規模港湾となった。その他、花蓮港(1931年〜1939年)の開港、戦争のため中断されたが、台中港の着工(1931年)も実施された。

また、交通網改革に並行して、近代的な都市建設も始まった。台北、台南の2大都市で衛生環境改善面から、市区改正(都市計画)としての下水道工事が着手された。台北では市区改正計画に、道路と上下水道工事の他、衛生・安全・土地区画整理の観点から建築物の基準も定めた。これらは、台中・嘉義・台南でも施行され、全島に展開(1910年)された。1937年以降は、都市計画と改称され住民生活の近代化を促した。

 

○同化政策の展開

武官総督が7代続いたが、初の文官出身となった田総督(1919年)は、日本本土と同じ制度を適用する内地延長主義(共学、婚姻の認可)で台湾を緩やかに統治した。第1次世界大戦後(1918年)の民族自決運動の高まりを懸念して、日本語の教育は積極的に推進したが、風俗習慣、信仰に対する全面的な日本化は求めなかった。

また、大正デモクラシーの影響を受け、台湾にも、協調・自主自立を求める社会運動が始まった。差別撤回を求めた台湾同化会(1913〜15年)の結成、63法撤廃を求めた留学生による新民会の発足(1920年)、地位向上・文化向上を目指した台湾文化協会の発足(1921年)と続いた。そして、台湾文化協会は、自主自立を求めた台湾議会設置請願運動(1920年)の拠点となった。

やがて、左傾化・民族運動と路線対立が激化して、台湾文化協会より分離した穏健派は、初の政党である台湾民衆党を結成(1927年)した。その後分裂して、穏健派は台湾地方自治連盟を設立(1930年)、台湾議会設置請願運動の停止を条件に、地方協議会議員の半数の民選を実現(1934年)した。しかし、北支事変勃発後(1937年)、自主解散した。

 

○継続する抗日運動

初期の武装ゲリラ鎮圧(1902年)後も、林野調査(無地主土地の国有化)等植民地開発が、山間林野の先住民族地域を含む広範な領域に及ぶと、大陸の辛亥革命(1911年)の影響も含め、沈静化した武装蜂起が散発するようになった。第5代佐久間総督(1906年)は、討蕃事業(1910〜14年)をその対策として実施したが住民の激しい抵抗にあった。主な抗日蜂起として、北埔事件(1907年)、林杞埔事件(1912年)、羅福星事件(1913年)、西来庵事件(1915年)、霧社蜂起事件(1930年)を列挙する。

政府の思想弾圧が強化される中、政府批判の政党運動も激化した。左傾化した台湾文化協会の一派は、1928年に発足した台湾共産党に吸収され、台湾民衆党も分裂し左傾化したが、満州事変(1931年)による戦時体制の中、両党ともに解散(1931年)させられた。穏健派グループの地方自治連盟も、中国との全面戦争となった北支事変勃発(1937年)後自主解散を行い、台湾の社会・政治運動は終焉した。

 

○戦時体制と台湾返還

小林総督(1936年)は、戦時体制強化の必要性から、従来の緩やかな同化政策を転換、皇民化運動として急進化した。制限・禁止事項として、母語使用制限、新聞の漢文蘭廃止、伝統的演芸の禁止、宗教行事の制限と禁止が公布(1937年)された。また、強制事項として神社参拝、日本語の使用、日本名の使用が強制(1940年)されたが、実態的には推奨、許可制といった運用もなされ、日本語は7割程度の普及(1943年)、改姓名は2%程度(1943年)であった。

やがて英米との太平洋戦争が始まると、「内台一家」の皇民奉公会が発足(1941年)し、官軍民一体の戦時体制が構築された。大正以降の安定社会で同化教育を受けた世代が、皇民化運動に熱心に応じたが、また、戦争の犠牲にもなった。台湾での志願兵制度は1942年に試行され、徴兵制は台湾防衛のため1944年に実施されたが、従軍者20万7千人(軍人8万人)の内、戦死者3万3百人の大きな犠牲を払った。

日本の降伏によって、台湾及び澎湖諸島は、蒋介石の中華民国に返還(1945/10/25)された。この日を「光復節」とし、半世紀に渡る日本の統治は終了し、台湾は、中華民国台湾省となった。戦争の終結と共に、台湾軍人・軍属の帰還と日本企業・行政機関の接収(1945/11)、49万人の日本人の帰国が始まった。1946年3月までに、帰国はほぼ完了した。

 

 

台湾歴史年表(〜1945年)

 

年代/出来事 備  考
 オランダの支配へ(〜1662年)
  • オランダ、澎湖諸島(明朝)占拠(1604)、反攻で撤退(1624)
  • オランダ、台湾南部占領、築城(安平と台南)、支配(1624)
  • スペイン(歴史参照)、台湾北部占領、築城(基隆(1626)と淡水(1629))
  • オランダ、台湾北部からスペイン勢力を駆逐。中国福建省より漢人移民招聘、開拓促進(1642)
  • <農民反乱で明朝滅亡。新興清朝と南明が対峙(1644) >
  • 圧政で郭懐一の武力蜂起。オランダが鎮圧(1652)
  • <清、南明の鄭芝竜軟禁(1646)、子息鄭成功、反清復明戦争継続。清、軟禁の鄭一族斬首(1661)>
  • 英/蘭、東インド会社設立(1600/02)
  • 薩摩藩、琉球王国を編入(1609)
  • 三十年戦争(ドイツ荒廃)(1618〜48)
  • 蘭、ジャワに総督府設置(1619)
  • メイフラワー号(英国移民乗船)、米国のプリマス上陸(1620)
  • 英国でピューリタン革命(1642〜49)
  • デューンの戦(スペイン、英仏連合に敗北。国際優位喪失)(1658)
 鄭一族の統治(1662年〜1683年)
  • 鄭成功、台湾を新根拠地に(1661)。オランダを駆逐。「東都」と称し漢人政権樹立。後継者の鄭経、「東寧」と改称(1662)
  • 清国、台湾攻略を放棄(1665)。以後海洋貿易国家として繁栄。
  • 清国で抗清戦争「三藩の乱」勃発。鄭経、参戦(1673)。清、反乱軍を平定。鄭経、台湾に撤退(1680)。翌年、病没。
  • 清国の攻撃で、鄭家降伏(1683)。清国中国全土支配
  • 仏、東インド会社再興(1664)
  • 第二次蘭・英戦争(1665〜67)
  • ネーデルランド戦争(1667〜68)
  • 露・トルコ(旅行体験)交戦(1677〜81)
  • オスマン帝国、第2次ウィーン包囲失敗(1683)
 清朝の統治(1683年〜1895年)
  • 台湾、福建省に編入(一府三県。1684)。以後、渡航許可制の中、漢人移住と台湾開拓が進む。
  • 朱一貴の乱(高雄県で挙兵、全土に拡大。1723年鎮圧)(1721)
  • 理蕃政策(先住民の生活圏保護)と同化政策の推進(1729)。移民による山間奥地の開拓進行で、理蕃庁を創設(1766)
  • 林爽文の乱(1786〜1788)
  • アヘン戦争牽制で、英国艦隊、台湾近海を遊航(1840)。第二次アヘン戦争(1856〜1860)。樟脳紛争で英国軍艦、台湾の安平を砲撃(1869)
  • 米国ペリー艦隊、台湾北部(鶏籠)に寄港(1854)。米国、天津条約で安平、淡水を開港(1858)。打狗(高雄)、鶏籠、追加開港(1863)。米軍艦、船員殺害で南部先住民族を砲撃、侵犯(1867)。南部先住民族、米国と遭難救助条約締結(1869)
  • カトリック神父の布教再開(1859)。英国キリスト教長老派協会、台湾南部に布教(1865)。カナダキリスト教長老派教会、台湾北部に布教(1872)
  • 牡丹社事件(台湾先住民が琉球漂流民殺害)発生(1871) 。日本、牡丹社事件で台湾南部出兵(先住民討伐。清、賠償金支払い。琉球、日本の属国を間接承認)(1874)
  • 清仏戦争で仏艦隊が台湾各地を砲撃(1884)。天津条約(清、ベトナム宗主権放棄)で、仏撤退(1885)
  • 台湾、福建省から独立、省に昇格(1885)。劉銘伝氏着任、改革(土地調査事業、鉄道敷設、樟脳専売制度、郵便制度、山地開発促進)着手(1886)。漢族系住民、30万人(1684)→255万人(1893)。耕地面積、約42倍の75万町歩。
  • 台湾の首府、台南から台北に。劉氏離任、改革頓挫(1891)
  • 日清戦争勃発(1894)。下関条約(台湾・澎湖割譲)締結(1895)
  • スペイン王位継承戦争(1701)
  • 露・トルコ戦争(1736)
  • 英、米国独立を承認(1783)
  • フランス革命(1789)
  • ハワイ王国、憲法公布(1840)
  • クリミア戦争(1854)
  • 第二次アヘン戦争(1856〜1860)
  • 仏軍、サイゴン占領(1859)
  • 仏、カンボジアを保護国に。米リンカーン大統領、奴隷解放を宣言(1863)
  • 紅華島武力衝突(仏・朝鮮)(1866)
  • 仏、コーチシナ併合(1867)
  • エジプトのスエズ運河開通。米国、大陸横断鉄道開通(1869)
  • 紅華島武力衝突(米・朝鮮)(1871)
  • 日露、樺太千島交換条約(1875)
  • 日朝修好条規(不平等条約)(1876)
  • 仏、ベトナムを保護国に(1884)
  • 日・ハワイ渡航条約(1886)
  • 米国、西部開拓終了(1890)
  • ハワイ(旅行体験)、オカラニ女王即位(1891)
  • ハワイ共和国誕生宣言(米保護下の暫定政府)(1894)。共和国、王権派の反乱鎮圧。女王、廃位同意(1895)。
  • 尖閣諸島日本領土に編入(1895)

 

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 日本の植民地統治(1895年〜1945年)
  • 台湾民主国、独立を宣言(総統に唐台湾巡撫)(1895/05)。鶏籠港で台湾接受を手続き(中国李氏と日本の樺山初代台湾総督)。日本軍、台北入城。台湾民主国崩壊。抗日ゲリラ、各地で抵抗(06)。日本軍、台湾(旅行体験)全島平定(11)
  • 「六三法」施行。抗日ゲリラ各地で抵抗、日本帝国議会で台湾売却論も(1896)
  • 児玉第四代総督、後藤民生局長就任(1898/03)。土地調査事業開始(09)。匪徒刑罰令(抗日ゲリラに極刑)公布(11)
  • 台湾銀行設立(1899)。台湾銀行券発行(1904)
  • 島内西部縦貫鉄道敷設(基隆→高雄)(1899〜1908)。東部では花蓮の台東線(1915)、基隆の宣蘭線(1924)が完成
  • 近代的港湾建設工事着手。基隆港(1899)、高雄港(1904)、花蓮港(1931)
  • 都市計画着手(道路、上下水道、区画)。台北(1900〜)。全島に展開(1910〜)
  • 宣蘭河堤防(約3.7Km)工事。第一期(1900〜)。第二期完(1926)
  • 土地調査事業終了(1905/03)。南北縦貫鉄道開通(05)
  • 「六三法」に代わり「三一法」施行(1906)
  • 北埔事件(1907)
  • 林野調査事業と「討蕃事業」(各々5年計画)(1910〜1914)
  • 林杞埔事件(1912)。羅福星事件発覚(1913/10)。台湾同化会結成(12)。解散(1915/02)。西来庵事件発生(08)。最初の文官総監、第8代田健治郎総監着任(1919/11)
  • 新民会、東京で結成(1920)
  • 帝国議会に第一回「台湾議会設置請願書」提出(1921/01)。台湾議会設置請願運動開始(02)。請願運動中止(1934/09)
  • 「三一法」に代わり「法三号」施行(1921/04)
  • 鳥山頭ダム(世界でも最大規模)建設(1921〜1930)
  • 台湾文化教会設立(1921)。協会分裂、台湾民衆党結成(1927/07)。党解散(1931/02)
  • 台北帝国大学開校(1928)
  • 霧社蜂起事件(1930/10)。第2次霧社事件(1931/04)。林献堂の「祖国事件」発生(1936/06)。武官総監制復活(第17代小林総督着任)(1936/10)
  • 台湾地方自治連盟結成(1931/08)
  • 本格的な皇民化運動開始。台湾地方自治連盟解散。台湾人の母語使用制限・新聞の漢文欄廃止(1937/04)。改姓名規則を公布。改姓名運動開始(1940/02)
  • 重慶で台湾人による台湾革命同盟会結成(1941)
  • 最初の台湾人志願兵入隊(1942)。台湾人への徴兵制実施(1944/09)
  • 中国国民政府、台湾調査委員会を設置(1944)。中華民国軍、台湾を開放(1945/08)。連合国軍総司令部(マッカーサー)、国民党軍(蒋介石)に台湾占領命令(09)。台湾省行政長官公署、台北に開設。国民党軍、台湾上陸。日本の第19代台湾総統、行政権を台湾省行政長官陳氏に引渡す(10)。台湾省、日本企業と行政機関接収開始(11)。在台湾日本人、帰国開始(12)。引上げを完了(1946/04)
  • 米西戦争。米国、ハワイ併合(1898)
  • 仏領インドシナ連邦成立(1899)
  • 中国、義和団の乱(1900)。北京議定書(列強11ヶ国と講和)(1901)
  • 日英同盟(1902)
  • 日露戦争(1904)。日露ポーツマツ条約(南樺太割譲)。韓国を保護(1905)。日本、韓国併合(1910)
  • 辛亥革命(1911)。中華民国成立(1912)
  • 第1次世界大戦(1914〜1918)。米、独に宣戦布告。ベルサイユ条約(1919)。国際連盟発足(1920)
  • ロシア革命(1917)。ソ連邦成立(1922)。米ソ国交樹立(1933)
  • トルコ革命(1919〜1923)。トルコ共和国樹立(1923)
  • 関東大震災発生(1923)
  • 米国株価暴落、世界大恐慌(1929)
  • 満州事変(1931)。満州国、建国宣言(1932)。盧溝橋事件発生、日中全面戦争へ(1937)
  • 日本、国連脱退。独でヒットラー政権誕生(1933)。米国でニューディール政策(1933〜1945)
  • フランコ将軍が反乱。スペイン内戦始まる(1936〜1939)
  • 第2次世界大戦(1939〜1945)。仏降伏(1940/06)。日独伊三国同盟(09)。日ソ中立条約。独ソ戦争。太平洋戦争(1941)。伊、降伏(1943)。独、無条件降伏。ポツダム宣言(米英ソ)。ソ連、対日宣戦布告。朝鮮半島北部北方4島占領。米国、広島・長崎に原爆投下。日本、無条件降伏。国際連合成立(1945)。
  • 中国、国共の内戦開始(1945)。中国国民党政府、南京遷都(1946)
  • 南北朝鮮、独立のための臨時政府樹立(米英ソ中の信託統治)(1945)。ソ連、樺太・千島領有宣言。米ソ冷戦開始。米、ビキニ原爆実験。第1次インドシナ戦争(仏・ベトナム)(1946)
 注1:(数字)は、「数字」月または「数字」年

 

      

 



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台湾は1895年から1945年までの半世紀、日本の統治下にあった。戦後、言論統制と弾圧の時代が長く続き、彼らの声は封殺された。1992年に李登輝総統が治安法を改正、民主化が本格化してから20余年。彼らの体験は何を問いかけるのか・・
台湾外交の形成 日華断交と中華民国からの転換 2019/1 清水麗(著)
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◆語句・出典

○語句説明

三十年戦争
ドイツ領邦(神聖ローマ帝国)間の宗教戦争で始まり(1618年)、ヨーロッパ各国の介入によって、国際的な覇権戦争へと拡大した。ハプスブルク家とブルボン家の対立等多様な抗争軸の中で、間断なく続いたこの紛争は、1648年のウエストファリア条約によって終結したが、主戦場となったドイツは、国土の荒廃と封建制の崩壊で、神聖ローマ帝国という中世国家は解体され、プロイセンとオーストリアという主権国家が形成された。この戦争は、ヨーロッパの主権国家体制の確立という結果に結実した。
ピューリタン革命(清教徒革命)
王政を廃し共和制を志向した、1642年に始まった英国市民革命をいう。チャールズ1世の専制政治に反対した、クロムウェルらのピューリタンを中心とする議会派が、1649年に国王を処刑して共和国を樹立した。その後、クロムウェルは急進派を弾圧して議会を解散、独裁政治を行ったが、1658年、彼の死とともに共和国は崩壊、1660年には王政が復活した。
郭懐一の武力蜂起(郭懐一事件)
郭懷一は、現在の台南市一帯で開墾に従事していた入植者で、中国大陸の福建省泉州に生まれた。大陸の漢人入植者は、麻や米などを栽培、近隣村落との小規模交易に従事した。栽培不振、オランダの重税、下級官僚によるゆすりに苦しみ、郭懷一は反乱を計画、1652年9月に武力蜂起したが、密告もあって、オランダ軍と台湾原住民の同盟軍に鎮圧され、数千人の漢人が殺害された。
三藩の乱
明の滅亡時に清に協力した功績で藩王(半独立国家)となった3つの藩王国が、清王朝の藩廃止決定に反対して起きた反乱をいう。1673年呉三桂が蜂起し、他の2藩王も1674年に呼応、反清勢力拡大の中、1676年に台湾の鄭氏政権も参戦した。一時は長江以南を占領する優勢な戦況であったが、各個撃破され1681年に終結した。鄭氏政権も、1683年に降伏、国内の反清勢力は一掃され、康熙帝による君主独裁が完成した。
朱一貴の乱
中国の清朝初期に、台湾で起きた大規模な農民の反乱をいう。朱一貴は福建省出身で、台湾に移住し鳳山県で養鴨を生業とした。台湾の鄭政権は、1683年に清朝に併合され、農民はその後の重税に苦しんだ。秘密結社と山林盗伐の百数十名が逮捕されたのを契機に、1721年農民が蜂起した。朱一貴は明朝の末裔を名のり、全島を占領するや中興王と称したが、大陸からの清軍の反抗と内部分裂(福建人と広東人の対立)で農民政府は瓦解し、北京で処刑された。
理蕃政策(清朝)
漢族系移民開拓者と先住民族との、共存統治政策を理蕃政策という。清朝統治期は、平地に住む「熟蕃(平埔族)」への漸進的な同化政策(1715年に帰属蕃社53社(部落))を主体的に進めたが、僻地に住む「生蕃(高砂族)」への同化政策は容易ではなかった。移住拡大に伴い、衝突防止のため、両民族の生活圏境界に境界石を立て、両者の相互侵犯を禁止した。
フランス革命
フランスの絶対王政末期に起きた市民革命(1789年〜1799年)で、国民の要請である「議会や憲法」の制定が拒否され、武力弾圧されたことにより発生した。革命はバスチーユ牢獄の襲撃で始まり、国民公会の設置、封建的特権の廃棄、人権の宣言へと続き、1791年に憲法が制定され、王政は廃止(1792年)、ルイ16世は処刑(1793年)された。この間、革命側の内部対立も起き恐怖政治が続いたが、急進派のロベスピエールらが処刑(1794年)され、保守派が国民公会を解散、1795年に安定を求め総裁政府を設立した。その後、ナポレオンのクーデター(1799年)によって倒され、革命に終止符が打たれた。
理蕃政策(日本の台湾総督府)
清国より割譲後の台湾の初期理蕃政策(〜第四代総統)は、漢民族居住の「平地」を中心とした軍事制圧と治安維持であった。1909年、第五代佐久間総統は「五箇年理蕃計画(討伐と帰順勧告)」を発し、過去の政権に不服従であった山地先住民の帰順を推進した。帰順後は「蕃地」として管理され、「平地」とは異なる「特別行政区(理蕃警察の管理下)」となった。1930年より「蕃地開発調査(8年間)」が実施され、先住民族に必要な生活安定面積の算定の中、「平地」移住促進された。
アヘン戦争
1840年〜42年、アヘン(麻薬)貿易に端を発した清国(現中国)とイギリスによる戦争。対清貿易赤字(お茶の輸入)をアヘン密輸(清朝のアヘン禁止令)で解消しようとした英国の目論見が発端。清は屈服し南京条約を締結し、賠償金の支払い、香港の割譲、上海、広州などの開港を受け入れた。この後、西洋列強の侵略で、中国は不平等条約や国土の割譲、租借によって半植民地状態となり衰退した。
牡丹社事件
1871年、台湾南部に漂着した宮古島の住民の内54人が、「牡丹社」を名乗る原住民に殺害された事件(12人は帰還)。1873年、日本の外務卿の副島種臣は清国に赴き抗議、「清国の領土では無い」の回答で、1874年、日本は台湾に出兵、清国の賠償を条件に撤退した。
清仏戦争
清国(中国)とフランスが、ベトナムの宗主権を巡り戦った戦争(1884/06〜1885/06)で、中越国境での一進一退の硬直状態、一方で、清国の南洋艦隊壊滅、台湾封鎖を経て、天津条約を締結し終了した。清国宗主権を放棄し、雲南を開放した。ベトナムは1888年まで抵抗を継続した。
日清戦争
朝鮮半島の支配権を巡り、清国(中国)と日本が争った戦争(1894年〜1895年)で、下関条約を締結し終了した。清国朝鮮の独立を承認し、遼東半島(三国干渉で清国に返還)・台湾を日本に割譲した。朝鮮の甲午農民反乱(東学党の乱)を期に両国が朝鮮に出兵、戦争となり、日本は朝鮮から満州に進出した。
六三法
1896年に公布され、台湾総督による植民地台湾の「特別統治」の根拠法となった。この法律は、台湾総督に、行政、立法、司法の三権を付与した。1906年公布の「三一法」は台湾総督の権限の一部が削除されただけで、廃止された「六三法」と大きな相違は無かった。
北埔事件
元警官であった蔡首謀者が、新竹県北埔の山岳部の漢人と原住民を扇動し起こした暴動(1907年)で、日本人警察官や市民など57人が殺害された。事件後、関係者は処分され、理蕃政策も調整され、漢人経由ではなく、台湾原住民を直接管理する方式となった。
羅福星事件
辛亥革命の影響を受けた羅福星が、台湾解放闘争を決意し台湾の客家達と共謀し、抗日蜂起を計画した事件で、事前に官憲に発覚(1913年)、同志達と共に捕縛・処刑された。
西来庵事件
元警察官であった余清芳が、台南の西来庵の布教活動利用して計画した、抗日武装蜂起事件で、計画が事前発覚(1915年)して、山間部を拠点としたゲリラ戦となり、日本人95人が殺害された。事件関係者は1957人を数え、多数の死刑判決も出たが、後に恩赦で減刑された。
鳥山頭ダム
台湾の中央西部、嘉南平野東方の山地にある巨大ダム(台南市の北東約40km)で、配水する15万haの灌漑地には、総延長16,000kmの給排水路が同時に建設され、この地の水がめとして大きな役割を担っている。日本人土木技師八田與一が建設(1920年〜1930年)を指揮し、工事関連者のための病院・学校も建設した。ダムは堰堤長1.35km、堰堤盛土高さ51m、完成当時の満水貯水量は日本の黒部ダムの75%に相当した。不毛の地を一大穀倉地帯に変えた大規模ダム建設工事となった。
霧社蜂起事件
台湾中部の霧社で起きた反日蜂起事件(1930年)で、総督府への帰順を果たし、模範的と呼ばれた霧社一帯の原住民約200人が、駐在所などを襲い、武器・弾薬などを強奪し、学校の運動会場や付近一帯を襲撃して、約140名の日本人を殺害した。原住民一族は50日ほどで鎮圧(300名近くの原住民が死亡)され、残った人々は強制的に移住させられた。この事件は、原住民の中で蓄積された日本への憎しみが爆発したもので、先住民政策の再検討を余儀なくされた。
クリミア戦争
黒海沿岸の覇権をかけて、ロシアとオスマン・トルコ、さらにトルコを支援するフランスやイギリスなどヨーロッパ諸国の間で起こった戦争(1853〜1856年)で、オスマン帝国の衰退下、ロシアの領土拡張のための南下政策と対立する英仏連合の衝突を背景とした。クリミア半島と黒海を主戦場としたが、戦火はドナウ川流域、バルト海、カフカス地方、さらに極東のカムチャツカ半島まで広がった。モルダヴィア公国へのロシアの侵攻(1853年)で始まったが、ロシア海軍のセヴァストポリ要塞陥落(1855年)で終結、1856年のパリ条約でロシアは、モルダヴィアに隣接するドナウ河沿岸地帯を喪失、黒海の非武装化、トルコ領内のキリスト教徒に対するヨーロッパの保護にも同意した。
米西戦争
キューバ島(1895年独立を宣言、スペインと継争中)の砂糖資源をめぐって起こった、アメリカとスペイン旅行体験)の戦争(1898年)で、米軍艦メイン号の爆沈を契機に始まった米国の帝国主義戦争。4ヶ月で米国の勝利となり、パリ条約でキューバの独立は承認され、支配下に置くと共に、アメリカフィリピン・プエルトリコ・グアムを領有した。
義和団の乱(北清事変)
日清戦争後、義和団が生活に苦しむ農民を集めて起こした反キリスト教排外主義の民衆蜂起(1900年)で、鎮圧不可とみた清朝も同調して列強に宣戦布告した。北京の列強大公使館区域が包囲攻撃されたため、日本を含む8か国の連合軍が出動して鎮圧、講和を定めた北京議定書(1901年)によって中国の植民地化がさらに進んだ。
日英同盟
日本とイギリスがロンドンで結んだ、他方の参戦義務を含む攻守同盟条約(1902年)で、ロシアの東アジア進出を牽制し、中国と朝鮮における両国の権益を保護することを目的とした。後に、ワシントン会議における四か国条約(1921年)により、翌年廃棄された。
日露戦争
満州・朝鮮の支配をめぐって戦われた、日本とロシアの戦争(1904〜1905年)で、激戦の中、両国共に戦争継続が困難な状況となり、米国大統領ルーズベルトの勧告を受け入れて、ポーツマスで講和条約を締結(1905年)した。ロシアの南下政策に対抗し、英・米の支持を受け開戦した日本は、旅順攻略・奉天会戦・日本海海戦と勝利したが、軍事的・財政的にも限界に達し、一方、ロシアも革命運動の激化等で戦争継続が困難となった。
ロシア革命
帝政を倒し史上初の社会主義国家を成立させた、20世紀初頭のロシアにおける一連の革命(1905〜1917年)を総称する。第1次革命は、ロマノフ朝の専制支配に対する不満を背景に、血の日曜日事件(1905年)を契機に民衆が蜂起、ソビエト結成、全国ゼネスト、戦艦ポチョムキンの反乱などで頂点に達したが、国会開設勅令の発布やモスクワでの武装蜂起の失敗により鎮静化した。第2次革命は、第一次大戦の長期化による社会不安の深刻化の中、労働者と兵士が蜂起、ニコライ二世が退位しロマノフ朝が終結、臨時政府とソビエトの二重政権となる三月革命(1917年)が起きた。その後、レーニン指揮下のボルシェビキの武装蜂起(1917/11)で、プロレタリア革命を実現、ソビエト政権を樹立した。
辛亥革命
中国に起こった清朝打倒の革命(1911年)で、武昌の蜂起が各地に連鎖拡大、南京に臨時政府が樹立され、翌年、孫文を臨時大総統に選び、清帝退位によって、孫文の三民主義を指導理念とした中華民国が成立(1912年)した。しかし、保守派との妥協の中、革命も進展せず、清朝の軍閥である袁世凱が大統領に就任した。
トルコ革命
第1次世界大戦(1914〜18年)後の各国占領下のオスマン帝国を倒し、トルコ共和国(旅行体験)を樹立した祖国解放運動とその革命・改革(1923年)をいう。ケマル=アタチュルクは指導者として、アンカラに臨時政府を樹立(1920年)、各地のパルチザン運動を統合、1923年スルタン制を廃止し、共和国を成立させた。翌年カリフ制の廃止・新憲法制定を実施、以後、文字改革・太陽暦の採用・政教分離などの近代化政策を進めた。
満州事変
奉天(今の瀋陽)郊外の柳条湖で満鉄線路の爆破事件(1931年)を契機として始まった日本軍の中国東北部への侵略戦争。若槻内閣は不拡大方針をとったが、関東軍は東北三省を占領。翌年、満州国を樹立し、さらに熱河省を占領、国民政府と塘沽 (タンクー) 停戦協定を締結して満州領有を既成事実化した。以後15年に及ぶ日中戦争の発端となった。
スペイン内戦(スペイン市民戦争)
スペインで起きた内戦(1936〜39年)で、人民戦線政府(1936年誕生の左派内閣)に対して軍部が蜂起した事件。政府側はソ連と国際義勇軍の支援を受けたが、ドイツ・イタリアの援助を受けた軍部・右翼勢力に敗れ、フランコ将軍の独裁体制成立した。
国共の内戦
協力と対立を繰り返した中国国民党(1919年結成)と中国共産党(1921年誕生)の内戦。第1次国共内戦(1927〜37年)と第2次国共内戦(1946〜49年)がある。日中戦争期の第2次国共合作を経て、日本軍撤退後に再発した第2次国共内戦では共産党が勝利し、中華人民共和国が成立(1949年)した。一方、国民党は台湾に撤退して政権を維持した。
第1次インドシナ戦争
インドシナ半島で第2次世界大戦直後から半世紀近くにわたり、ほとんど絶えることなく戦われた戦争。通常、第1次インドシナ戦争 (1946〜54年)、第2次インドシナ戦争 (ベトナム戦争、1960〜75年)、第3次インドシナ戦争 (1978〜91年)に区分される。第1次インドシナ戦争は、旧フランス領インドシナの独立をめぐって、ベトナム民主共和国とフランスとの間で行われた戦争で、北緯17度線を暫定境界線とするジュネーブ協定が成立(1954年)し、フランス撤退した。

 

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○出典

   ・外務省 台湾基礎データ、ジェトロ 概況、各種書籍等を参照

 



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歴史の影に隠されていた石垣島への台湾移民たちの存在。東アジア過去80年の歴史の変遷を、その歴史に翻弄されながらも生き抜いてきた、ある一家の3世代にわたる軌跡を辿った
世界の対中認識 各国の世論調査から読み解く 2022/1 園田茂人(編集),謝宇(編集)
大国・中国を世界はどのように見ているのか。アメリカ、台湾、香港、フィリピン、日本の最新情報より分析・・
アジアの孤児 ペーパーバック 2022/9 呉濁流(著)
植民統治下の台湾人が生きた矛盾と苦悩を克明に描いた、台湾文学の古典的名作
テロリズムとは何か 2020/6 小林良樹(著)
「テロ」。政治的暴力の真実。我々にも決して無関係ではありえない。理論と実際の間にある本質とは・・

 

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