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台湾は日本の琉球諸島の西方海上に位置(与那国島から約110Km)し、台湾最西端の小金門島より約6Kmで中国(歴史参照)に接している。面積は約3.6万平方Km(日本の九州相当)で、本島の他、澎湖諸島、金門諸島より構成される。地勢は山地、丘陵地が三分の二を占める山岳中心地形となる。
気候は南北に細長い(約394Km)地形から、北は亜熱帯、南は熱帯地域となる。5つの山脈が南北に縦走する高山地域は1年を通して冷涼で、阿里山(標高2406m)でも最高気温は19度C程度である。ちなみに、台北の平均気温は、およそ16度C(1月)から29度C(7月)となっている。
人口は約2343万人(2014年11月末)で、都市人口の多い順に、新北市(約396万人)、高雄市(約278万人)、台中市(約272万人)、台北市(約270万人)、桃園市(約206万人)、台南市(約188万人)となる。民族構成は、約98%を漢民族が占め、その内の約85%を本省人(日本統治以前から台湾に居住)が占める。使用言語は民主化、独自文化見直しの中、国語(台湾移住国民党軍使用北京語)、台湾語(福建省南部移住者)、客家語(広東省北部移住者)、原住民語の教育が義務化された。また、主要宗教(2013年)は道教(約82万人)、プロテスタント(約40万人)、カトリック(約18万人)となっている。
明朝中期の台湾(旅行体験)は、明朝の海禁(貿易・漁業の制限)政策の影響で、南部地域は、倭寇・海賊等の仲介貿易の基地となった。同時に、対岸華南住民の移住と開墾も始まった。大航海時代のアジア、日中貿易に先行したポルトガル(歴史参照)は、倭寇討伐等で明朝に協力、マカオの通商定住許可(1557年)を得て、その後1世紀に渡り、明朝の官業貿易を独占、利益を享受した。
また、フィリピンのマニラ(1571年占領)を拠点に太平洋横断貿易(華南・マニラ・メキシコ・スペイン)を意図するスペインは、オランダの南台湾占拠(1624年)に対抗するため、鶏龍(1626年)、淡水(1629年)に築城、台湾北部を占拠し対峙した。
一方、出遅れたオランダ(歴史参照)は、東インド会社を設立(1600年)、アジア経営の推進母体として参入を図るが、明朝とポルトガルの抵抗に合い頓挫、妥協した。マカオ攻撃の失敗(1602年)、澎湖諸島の占拠・撤退(1603年)、再度の澎湖諸島攻撃(1622年)で、撤退を条件に「台湾占領の不干渉」を得て、築城(1624年)、台湾南部を占有した。
海賊集団の鄭芝竜は、明朝の要請(1628年)で協力(官位を得て、海上防御)を受諾、海寇を帰討、勢力を拡大した。福建省民数万人を報償金付で移住させ(1628年)、開拓を促進し、勢力を保持しつつ、オランダとは共存した。この結果、台湾は、従来より西部の嘉義周辺を支配する海賊・武装貿易集団(鄭芝竜他)とスペイン(旅行体験)、オランダの3グループが並存して支配することになった。
スペインは、中継貿易拠点の成果も限定的な中、国力の衰退と共に、台湾北部経営も消極的となった。この機に乗じたオランダは、艦隊を派遣して、スペインを台湾北部より駆逐(1642年)した。台湾を領有したオランダは、大陸より大量の移民を招き(1648年)、時に圧制に苦しむ農民の反乱(1652年、郭懐一の武力蜂起)もあったが、原住民ともども開拓を促進させた。
また、大陸中国では、明朝末期に、女真族が満州に後金国を建国(1616年)して明朝支配から独立した。その後、朝鮮半島(歴史参照)、モンゴルを領土に組入れ大清国(1636年)とした。明朝は農民一揆で滅亡(1644年)し、これに乗じた清朝は、北京を占領、全中国の支配者となり、華南一帯の残存勢力「南明」と対峙した。
明朝と協力関係にあった鄭芝竜一族は、清朝との折衝の中、監禁・人質とされる(1646年)が、息子「鄭成功」は、屈服せず「反清復明」運動に奔走した。懐柔困難とみた清朝は、人質の一族を斬首(1661年)した。大陸での抵抗が困難となった鄭成功は、再起の拠点を地元台湾に求め、オランダ軍と交戦(1661年)、台湾より駆逐(1662年)した。大陸中国の政権交代の余波を受け、オランダの台湾統治もここに終焉した。
オランダより支配権を奪取(1662年)した鄭成功は、台湾を「東都」と称し、行政府を台南に置く初の漢人政権を樹立した。短命だった父成功の後を継いだ鄭経は、大陸中国より撤収・帰還し、「東都」を「東寧」と改称(1662年)、明朝の文教政策を持ち込むと共に、オランダと同様、開拓の推進と海洋貿易国家としての発展を図った。帰順に応じない鄭政権をみて、海軍力に限界がある清朝は、台湾攻略を放棄した(1665年)ため、清国の遷界令(海禁)の中、大陸との蜜貿易も独占して繁栄を極めた。
大陸で清朝の廃藩政策に反旗を翻した三藩の乱(反清復明運動)が勃発(1673年)、要請に応じ鄭経も参戦(1674年)したが、泥沼の混戦の中、反乱軍は平定され、鄭経は台湾へ撤退(1680年)した。翌年病没した鄭経の継位内紛の中、鄭政権は清国に無条件降伏をした(1683年)。清朝は、ここに中国全土の支配を確立した。
鄭政権を降伏(1683年)させた後、台湾を福建省に隷属させ、1府(台南)3県(台南、高雄、嘉義)を設置し統治した。治安と秩序の観点から、大陸からの渡航を許可制にしたが、時と共に形骸化して移住者が増加、開拓が進みやがて1府4県2庁制(1723年)となった。
漢人系移民の開拓が平野部から山地・辺境に進むと、紛争も頻発して、先住諸民族との生活圏調整、伝統的生活様式の保護が必要となった。併合直後は、平埔族への漸進的な同化政策が主で、帰属した蕃社(蕃人の部落)が53社(1715年)であった。蕃人保護と境界画定を目的とした理蕃政策が策定(1729年)され、同化政策(蕃童の漢文教育、弁髪漢服の普及、漢人姓の授与等)もあわせ推進されたが、効果は薄かった。移住民増大の流れは抗し難く、理蕃庁を創設(1766年)、南北両路(各々22社、72社)でそれぞれ管轄、統治した。
およそ1世紀に及ぶ清朝の隆盛も、19世紀半ばの欧米列強による植民地分割競争の激化で、徐々に衰退の兆候も見え出した。列強による内部干渉、外患にさらされる中、再起の策として清朝は、洋務運動(富国強兵運動)を展開(1856年〜)した。台湾への洋務運動は、防衛力強化(電線敷設、兵制再編、砲台構築)、インフラ整備(道路開通、行政刷新)、産業育成(南東部山地開発、鶏龍一帯の石炭採掘、鉱物資源調査)等がその先駆けとなった。
福建省から独立して台湾省が設立(1885年)、初代台湾巡撫に劉銘伝が任命(1886年)され、ここに台湾の本格的な洋務運動が始まった。主力政策は、防衛力強化と強兵の軍政事項と、財政力強化(土地調査事業、人口調査)及び産業開発(山地開発、砂糖・樟脳・茶等の特産品開発、貿易振興)の促進、そして、インフラ整備(鉄道敷設、築港、道路開発、郵便制度、電灯架設)の民生事項で進められた。漢族系住民は30万人(1683年)から約9倍の255万人(1893年)に増加、耕地面積は1万8千町歩から約42倍の75万町歩に激増と大きな成果を残したが、劉銘伝の離任(1891年)で以降頓挫した。
清朝の台湾経営が進む中、理蕃政策下の統治への不満が、台湾全土に拡大した朱一貴の乱(1721年〜23年)を誘発し、またその後も、天地会(反清復明の秘密結社)弾圧に関連した、林爽文の乱(1786年〜88年)や戴潮春の乱(1862年〜64年)と大規模な反乱が続き、その対応に清朝も苦慮した。
また、大陸本土ではアヘン戦争(1840年)後の清朝社会の混乱の中、キリスト教信仰の組織を束ねる洪秀全が大農民反乱を興し、南京を都に太平天国(滅満興漢)という独立国家を樹立(1851年〜64年)し、最盛期には中国全土の半分を占拠した。清朝は列強とのアロー戦争(1856年〜60年)に敗北し、太平天国軍を鎮圧する軍事力が乏しい中、郷勇などの漢人勢力(義勇軍)や、列強外国軍(英・仏・米他)の協力(反乱軍の強い民族主義を嫌い)によって太平天国軍を壊滅した。
19世紀半ばに入り、凋落の気配も見え出した清朝に、欧米列強の外患、干渉が繰り返された。その中で台湾が関連する部分を列記すると、アヘン戦争けん制で英国艦隊が台湾近海を遊弋(1840年頃)、米極東艦隊ペリー司令鶏龍(台湾北部)寄港(1854年。炭鉱・港内調査)、天津条約で台南等開港(1858年)、プロシア船南部少数民族部落砲撃・侵攻(1860年)、米軍艦南部少数民族部落砲撃・侵攻(1867年)、樟脳紛争で英軍艦安平砲撃(1869年)、日本琉球処分で台湾出兵(1874年)、清仏戦争(1884年〜85年。清朝敗北、ベトナム宗主権放棄)で波及、台湾北部攻撃等々、台湾防備の必要性が顕在化した。
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洋務運動の展開で、清朝の台湾支配が強化される中、牡丹社事件が発生(1871年)した。遭難で琉球住民が台湾南部に漂着、集落牡丹社の先住民に54名が殺害された事件で、日本の明治政府の抗議を、清朝は「化外の民」として責任を回避した。日本は出兵(1874年)して、台湾南部を占領、清朝と交渉の末、賠償金の支払いと琉球が日本の属国であることを間接的に承認させた。以後、台湾への洋務運動が強化された。
しかしながら、台湾の支配は、また、大陸を理由とした事柄で、その支配者を変転させることになった。朝鮮の独立をめぐって争われた日本と清朝の間の戦争である日清戦争(1894年〜95年)は、日本の勝利で収束し、日清講和条約(下関条約)が調印された。清朝は台湾と澎湖諸島、遼東半島(後に三国干渉で清朝に返還)を日本に割譲した。ここに、清国による200年を越す支配が終焉した。
<ある春 (神奈川 鎌倉)>
日清戦争で割譲された台湾では、日本の領有に抵抗する官僚と有力者による「台湾民主国」の独立宣言が実施(1895/05)された。関与せずの清国の態度で、日本は台北に派兵、列強の干渉も無く失望した台湾民主国軍は逃走、無血入城した。樺山初代台湾総統は、台湾北部基隆沖の船上で、清国と台湾授受の手続きを、完了(1895/06)した。
台湾北部を短期間で占領した日本軍ではあったが、以降の台湾平定作戦で、ゲリラ化した住民の激しい抵抗に遭遇した。激戦の末、中部地区攻略、南部の嘉義占領(10月)、台南入城(11月)を果たし、台湾民主国は崩壊した。日本軍兵力約5万人で、戦死者約164人、戦病死者約4642人の犠牲をはらい、樺山総統は島内の平定を宣言(1895/11)し、民政へ移行(1896/04)した。
しかし、その後も「土匪」と呼ばれる武装集団の武力蜂起が続き、総督府は徹底的な武力鎮圧で対処した。第3代乃木総督は、地域の危険度に合わせた「三段警備」を実施(1896年)するも土匪の抵抗は頻発し、「台湾売却論」も浮上した。やがて国籍選択期限が到来(1897/05)し0.2%程度の住民が去ったのを契機に、治安確立に向けて「土匪討伐令(極刑の適用)」を公布(1898年)、あわせ「招降政策(寛大な処置)」も同時に進めた。この結果、土匪勢力を根絶(1902年)し、全島より私有武器を押収して、治安が改善され、総督府の信頼も高まった。
当初、総督府条例(1895/08)により軍政がしかれたが、台湾平定完了で民政に移行(1896/04)した。同時に六三法(立法権付与)も施行され、総督府は行政権・軍権を含む強大な権力を持った。第4代児玉総督と後藤民政長官は、治安維持と地域コミュニティ管理のため「保甲条例」を公布(1898/08)した。保甲(10戸で1甲、10甲で1保)は、警察の管理・指揮下で活動し、日本語の普及、迷信の排除、纏足の開放など、住民の習俗近代化に寄与した。
並行して総督府は、経営基盤整備のための土地調査事業(1898年〜1904年)、人口調査事業(1905年)、文化・風俗等の旧慣調査事業(1901年から20年)も実施した。この調査結果より、耕地面積は2倍の63万甲に、地租も3倍強となった。山地原住民を除く人口も約304万人と判明した。
経済と産業の基盤確立では、貨幣制度の整備と主要産業の近代化に尽力した。総督府は、発券銀行と商業銀行を兼務した台湾銀行を設立(1899年)、多種存在する流通紙幣を、台湾銀行券発行(1904年)後禁止し、統一した。その後、台湾銀行は日本国内、中国沿岸部に出先を開設して、中国・南洋諸島の貿易金融に大きな影響力を持った。主要産業である製糖業の近代化も、日本の新渡戸農学博士を招聘し、その尽力によって台湾は、世界的な糖業王国となった。
初代樺山総督は、島内の交通網の整備を急務として、道路・鉄道・港湾の建設を急いだ。台湾平定戦時の日本軍の縦貫軍用道路(約440Km)建設(1895年から10ヵ月)に始まり、公道の総距離は約1.1万Km(1905年)、約1.8万Km(1938年)と道幅の拡張も含め拡大した。
清朝時代に、鉄道は既に開通(1893年、台北・新竹間100Km)していたが使い物にならず、島内西側を縦断する縦貫鉄道(北の基隆・南の高雄間404Km)を建設(1899年〜1908年)した。その後、東部の台東線(1915年)、宣欄線(1924年)、西部の屏東線(1941年)、そのほか、淡水線、集集線、平渓線などが開通し、島内の人的交流や物流が拡大した。
清朝時代の19世紀半ばに開港された淡水、基隆、安平、高雄の各港も、大型船舶の停泊が出来ず、近代的港湾建設が必要となった。基隆港(1899年〜終戦まで)、高雄港(1904年〜終戦まで)の築港工事が開始されアジア有数の大規模港湾となった。その他、花蓮港(1931年〜1939年)の開港、戦争のため中断されたが、台中港の着工(1931年)も実施された。
また、交通網改革に並行して、近代的な都市建設も始まった。台北、台南の2大都市で衛生環境改善面から、市区改正(都市計画)としての下水道工事が着手された。台北では市区改正計画に、道路と上下水道工事の他、衛生・安全・土地区画整理の観点から建築物の基準も定めた。これらは、台中・嘉義・台南でも施行され、全島に展開(1910年)された。1937年以降は、都市計画と改称され住民生活の近代化を促した。
武官総督が7代続いたが、初の文官出身となった田総督(1919年)は、日本本土と同じ制度を適用する内地延長主義(共学、婚姻の認可)で台湾を緩やかに統治した。第1次世界大戦後(1918年)の民族自決運動の高まりを懸念して、日本語の教育は積極的に推進したが、風俗習慣、信仰に対する全面的な日本化は求めなかった。
また、大正デモクラシーの影響を受け、台湾にも、協調・自主自立を求める社会運動が始まった。差別撤回を求めた台湾同化会(1913〜15年)の結成、63法撤廃を求めた留学生による新民会の発足(1920年)、地位向上・文化向上を目指した台湾文化協会の発足(1921年)と続いた。そして、台湾文化協会は、自主自立を求めた台湾議会設置請願運動(1920年)の拠点となった。
やがて、左傾化・民族運動と路線対立が激化して、台湾文化協会より分離した穏健派は、初の政党である台湾民衆党を結成(1927年)した。その後分裂して、穏健派は台湾地方自治連盟を設立(1930年)、台湾議会設置請願運動の停止を条件に、地方協議会議員の半数の民選を実現(1934年)した。しかし、北支事変勃発後(1937年)、自主解散した。
初期の武装ゲリラ鎮圧(1902年)後も、林野調査(無地主土地の国有化)等植民地開発が、山間林野の先住民族地域を含む広範な領域に及ぶと、大陸の辛亥革命(1911年)の影響も含め、沈静化した武装蜂起が散発するようになった。第5代佐久間総督(1906年)は、討蕃事業(1910〜14年)をその対策として実施したが住民の激しい抵抗にあった。主な抗日蜂起として、北埔事件(1907年)、林杞埔事件(1912年)、羅福星事件(1913年)、西来庵事件(1915年)、霧社蜂起事件(1930年)を列挙する。
政府の思想弾圧が強化される中、政府批判の政党運動も激化した。左傾化した台湾文化協会の一派は、1928年に発足した台湾共産党に吸収され、台湾民衆党も分裂し左傾化したが、満州事変(1931年)による戦時体制の中、両党ともに解散(1931年)させられた。穏健派グループの地方自治連盟も、中国との全面戦争となった北支事変勃発(1937年)後自主解散を行い、台湾の社会・政治運動は終焉した。
小林総督(1936年)は、戦時体制強化の必要性から、従来の緩やかな同化政策を転換、皇民化運動として急進化した。制限・禁止事項として、母語使用制限、新聞の漢文蘭廃止、伝統的演芸の禁止、宗教行事の制限と禁止が公布(1937年)された。また、強制事項として神社参拝、日本語の使用、日本名の使用が強制(1940年)されたが、実態的には推奨、許可制といった運用もなされ、日本語は7割程度の普及(1943年)、改姓名は2%程度(1943年)であった。
やがて英米との太平洋戦争が始まると、「内台一家」の皇民奉公会が発足(1941年)し、官軍民一体の戦時体制が構築された。大正以降の安定社会で同化教育を受けた世代が、皇民化運動に熱心に応じたが、また、戦争の犠牲にもなった。台湾での志願兵制度は1942年に試行され、徴兵制は台湾防衛のため1944年に実施されたが、従軍者20万7千人(軍人8万人)の内、戦死者3万3百人の大きな犠牲を払った。
日本の降伏によって、台湾及び澎湖諸島は、蒋介石の中華民国に返還(1945/10/25)された。この日を「光復節」とし、半世紀に渡る日本の統治は終了し、台湾は、中華民国台湾省となった。戦争の終結と共に、台湾軍人・軍属の帰還と日本企業・行政機関の接収(1945/11)、49万人の日本人の帰国が始まった。1946年3月までに、帰国はほぼ完了した。
年代/出来事 | 備 考 |
オランダの支配へ(〜1662年) | |
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鄭一族の統治(1662年〜1683年) | |
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清朝の統治(1683年〜1895年) | |
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☆☆ ひと休み ☆☆<露天より 秘湯堪能 (栃木 北温泉)>
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日本の植民地統治(1895年〜1945年) | |
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注1:(数字)は、「数字」月または「数字」年 |
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台湾アイデンティティー DVD 2014/3 台湾は1895年から1945年までの半世紀、日本の統治下にあった。戦後、言論統制と弾圧の時代が長く続き、彼らの声は封殺された。1992年に李登輝総統が治安法を改正、民主化が本格化してから20余年。彼らの体験は何を問いかけるのか・・ |
台湾外交の形成 日華断交と中華民国からの転換 2019/1 清水麗(著) 「一つの中国」という原則と、国際社会での地位存続との板挟みのなかで、台湾は何を選択してきたのか。今日の台湾外交の真の根源を浮き彫りに・・ |
地図とデータで見る国境問題の世界ハンドブック 2022/2 ユゴー・ビヤール(著)他 国境は、経済的な利益や地政学的な動きに応じて、どのように管理され、再交渉され、手段化されているか・・ |
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<一景 歌声流れ (伊 ベネツィア)>
・外務省 台湾基礎データ、ジェトロ 概況、各種書籍等を参照
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海の彼方 DVD 2018/3 歴史の影に隠されていた石垣島への台湾移民たちの存在。東アジア過去80年の歴史の変遷を、その歴史に翻弄されながらも生き抜いてきた、ある一家の3世代にわたる軌跡を辿った |
世界の対中認識 各国の世論調査から読み解く 2022/1 園田茂人(編集),謝宇(編集) 大国・中国を世界はどのように見ているのか。アメリカ、台湾、香港、フィリピン、日本の最新情報より分析・・ |
アジアの孤児 ペーパーバック 2022/9 呉濁流(著) 植民統治下の台湾人が生きた矛盾と苦悩を克明に描いた、台湾文学の古典的名作 |
テロリズムとは何か 2020/6 小林良樹(著) 「テロ」。政治的暴力の真実。我々にも決して無関係ではありえない。理論と実際の間にある本質とは・・ |