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イベリア半島の国家形成と統一は、紀元前12世紀の地中海諸族の殖民都市建設に始まり、紀元前3世紀の第2次ポエニ戦争で勝利した新興ローマが半島を制圧・半島のローマ化(キリスト教の普及)を進め、およそ500年間の属州統治が行われたことがその第1歩となりました。その後、紀元後4世紀後半のゲルマン民族大移動・ローマ帝国の東西分裂を契機に、西ローマ帝国は衰退に向かい、南フランスに建国した西ゴート王国が、5世紀後半までにイベリア半島を制圧、6世紀中頃にイベリア半島トレド(ご参考:トレドの風景)に遷都して、半島に首都を構えたキリスト教国家が誕生、およそ200年間の統治を行いました。
やがて、シリアに建国したイスラム王朝「ウマイヤ朝」が、8世紀前半にイベリア半島に侵入して、西ゴート王国を滅ぼし、数年の内に半島を制圧・その版図を「アル・アンダルス」と呼び、首都をコルドバに移し、属州統治を行いましたが、8世紀半ばに滅亡しました。その後まもなく、コルドバに後ウマイヤ朝が樹立され、アル・アンダルスを再支配、半島に首都を置くイスラム王朝として、11世紀中頃の滅亡に至るまで、半島におけるイスラム支配の全盛期を謳歌しました。
しかし、後ウマイヤ朝滅亡後のイベリア半島は、半島辺境に残存するキリスト教諸国と分裂割拠するイスラム勢力20数ヶ国及び北アフリカ「モロッコ」に興亡するイスラム王朝の半島への干渉という構図の中、レコンキスタが展開される時代へと入っていきました。11世紀後半にトレドを攻略した後、キリスト教勢力のカスティーリャ王国・アラゴン王国・ポルトガル王国が攻勢となる中、12世紀にはサラゴサ・リスボンを奪還して、北アフリカのムラービト朝を退け、13世紀にはコルドバ・セビリャ(ご参考:セビリャの風景)を攻略して、北アフリカのムワッヒド朝を半島より撤退させ、グラナダのナスル朝を除き、イスラム勢力をイベリア半島より一掃しました。
また、13世紀後半に、北アフリカのマリーン朝による半島侵攻がありましたが、14世紀半ばにイベリア半島より排除し、15世紀初頭にグラナダのナスル朝の攻略に入りましたが、カスティーリャ王国の内紛・王位継承問題等で中断しました。そして、15世紀後半に、カスティーリャ王女とアラゴン王子の結婚によりイスパニア(スペイン)王国が誕生、再度のグラナダ侵攻でナスル朝を滅ぼし、レコンキスタを完了させました。そして、陽の沈まない帝国「スペイン」の礎を築きました。
尚、この頃の遺跡が世界遺産として数多く残るスペインですが、丁度10年前に旅行をしましたので、「スペイン旅行(溢れる陽光と悠久の歴史)」と題して、2009年6月に掲載いたしました。埋もれたアルバムのネガよりデジタル化しましたので、写りはあまりよくありませんが、気分転換をかねてご覧頂ければ幸いです。
紀元前の半島に去来した様々な民族は、半島に文化をもたらし、その遺跡を残しました。そして、地中海諸族は、半島の地中海沿岸に殖民都市を建設しましたが、統一的な国家形成には至りませんでした。また、紀元前10世紀にガリア(現フランス)より侵入したケルト人は、先住のイベリア人との混血によりケルト・イベリア人が生まれ、現在のスペイン人の原型となりました。
紀元前3世紀に入り、新興国ローマと地中海に発展した貿易大国カルタゴの存亡をかけた戦いが始まり、半島は第2次ポエニ戦争(BC218年〜BC201年)で抗争の場となりました。この戦いに勝利したローマは、この後200年をかけて半島を制圧(BC19年)、そして経済・文化のローマ化と共に、更に500年間の半島支配(植民地化)を継続しました。
しかし、紀元後4世紀後半に入ると、ヨーロッパ大陸でゲルマン民族の大移動が始まり、また、ローマ帝国も皇帝死去に伴う相続により東西に分裂(395年)し、ゲルマン民族の西ローマ領侵入と相まって西ローマ帝国に衰退の兆しが出てきました。
5世紀に入るとゲルマン諸族は、イベリア半島に侵入して各地を分割領有しましたが、半島北西部の現ガリシアに定住(411年)したスエビ族と半島制圧に乗り出した西ゴート王国の圧迫により、ヴァンダル族・アラン族は半島より追放(419年)されて、スエビ族は半島の北部・西部を支配しました。追われた両部族は、北アフリカのカルタゴに渡りヴァンダル王国を建国(439年)、西ローマ帝国と対峙して西地中海の制海権を掌握、西ローマ帝国の衰退と滅亡(476年)を促進しました。
西ゴート族は、ローマを占領後(410年)、ローマ防衛の任に就くと共に、南フランスに西ゴート王国を建国(415年)しました。その後、西ローマ帝国の植民地であるイベリア半島の大半を制圧(470年)しましたが、6世紀に入り遅れて南下してきたフランク族に敗れ(507年)、ガリヤ(現フランス)よりイベリア半島に撤退しました。そして、王国をトレドに遷都(560年)し、半島北西部のスエビ王国を併合(585年)して、7世紀前半に半島全域の支配を完了(621年)しました。しかしながら、少数民族での支配・王位の選挙制等で権力抗争が続き、封建化が進展する中で、8世紀に向けて王権が弱体化していきました。
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<ある朝 (宮城 青根温泉)>
7世紀後半に建国したイスラム帝国ウマイヤ王朝(現シリア)は、東ローマ帝国と対峙しつつ東西に版図を拡大(北アフリカ〜中央アジア)しながら、8世紀初頭にジブラルタル海峡を渡りイベリア半島に侵入しました。西ゴート王国軍をグアダレーテ河畔で破り、西ゴート王国を滅亡(711年)に追いやり、その後数年でイベリア半島の大半を支配下に納め、属州としました(716年)。そして、その版図をアル・アンダルスと呼び、首都をセビーリャよりコルドバに遷都しました(717年)。
そして8世紀半ばに入り、内紛により本国のウマイヤ朝はアッバース朝に取って変わられましたが(750年)、逃亡した一部王族が半島に渡り、コルドバに後ウマイヤ朝を樹立(756年)、アル・アンダルスを再支配しました。やがて10世紀に入り、ラフマーン3世がカリフを称す頃(929年)には、後ウマイヤ朝は、アッバース朝を凌ぐほどに発展して全盛期を迎えました。
しかし、10世紀前半に、北アフリカ(現チュニジア)に興った(909年)、カリフを称するイスラム王朝ファーティマ朝と、半島北部のキリスト教勢力との2面作戦を展開していた後ウマイヤ朝は、北部主要都市のサラゴサ攻略(937年)後、団結したキリスト教諸国にシマンカスの戦いで敗北(939年)しコルドバ(ご参考:コルドバの風景)に撤退、北アフリカ戦線も、一時はモロッコの過半を制圧しましたが、敗退してセウタを保持(963年)するのみとなりました。その後内紛や反乱が頻発する中で王朝の統率力も衰退して、11世紀の前半に入り9代続いたカリフ位の廃位により、後ウマイヤ朝は消滅(1031年)しました。そして、アル・アンダルスは、セビーリャ・グラナダ・バレンシア・トレド・サラゴサなど20数余の諸国家に分裂しました。
一方、8世紀初頭の西ゴート王国滅亡と共に、半島北西部に逃れた西ゴート貴族ベラーヨは、その地にアストゥリアス王国を建国(718年)、コバドンガの戦いでイスラム軍に勝利(722年)して独立を守りました。そして、10世紀に入り、レオンに遷都してレオン王国となり(914年)、カスティーリャは、王国より独立して伯領となりました(961年)。
また、8世紀初頭に、ピレネー山脈を越えてガリア(現フランス)に侵入したイスラム軍は、トゥール・ポワティエでフランク王国軍に撃退(732年)され、以後、セプティア地方(759年)、バルセロナ(801年)と奪還され、ピレネー山脈以西に撤退しました。やがて9世紀後半に入り、カタルーニャ地方の諸伯領は、バルセロナ伯によって統合(874年)され、10世紀後半になると、フランク王国からの独立運動(987年)を起こし、独立を果たしました。
また、半島北東部には、バスク人がバンプローナ王国を建国(824年)して、10世紀後半にナバラ王国となり、11世紀に入ると隆盛を極め、西はガリシア国境より、東はバルセロナ(ご参考:バルセロナの風景)までの間を支配しました。しかし、王の死後(1035年)国土は分割相続されて、ナバラ王国、カスティーリャ王国、アラゴン王国に分かれました。このように、11世紀初頭のイベリア半島は、半島の北部・北西部・東部にキリスト教国家が、南部・中央部にイスラム分裂諸国家が存立する群雄割拠の時代となりました。
キリスト教諸国家は、11世紀半ばから後半にかけて、レコンキスタに向けた国家基盤を整備して、南下の圧力を強化、イスラム教国家群及び北アフリカのイスラム王朝ムラービト朝と対峙しました。カスティーリャ王国は、レオン王国を併合し、カスティーリャ・レオン連合王国を建国(1037年)、その後トレドを征服(1085年)して版図を拡大・半島中央部に進出しました。また、アラゴン王国は、国王暗殺後のナバラ王国を継承し、アラゴン・ナバラ連合王国を建国(1076年)して半島北東部での地盤を固めました。
しかし、北アフリカに建国されたイスラム王朝ムラービト朝(1056年)は、11世紀後半にモロッコ・ガーナ王国を支配下に置き(1084年)強勢となり、半島イスラム諸国の援助要請に応え半島に上陸、サラカの戦い(1086年)でカスティーリャ軍を壊滅させ、南下の動きを止めました。そして3度目の半島上陸に際しては、半島征服に戦略を転換して、コルドバ・セビリャを占領(1091年)、リスボンを制圧(1094年)して半島南部を支配しました。
やがて12世紀に入り、アラゴン王国・新興ポルトガル王国が優勢となり、東西両側面よりイスラム教国を攻略、南下を始めましたが、12世紀後半に、衰退したムラービト朝を征服した、北アフリカのイスラム王朝ムワッヒド朝の半島進出と攻勢により、半島の勢力均衡が崩れ、イスラム勢力が優勢となりました。
(1)、アラゴン王国は、ムラービト朝からサラゴサを攻略(1118年)、そして、婚姻・相続関連でカタルーニャ・アラゴン連合王国を樹立(1137年)して、半島東部に版図を急拡大しました。
(2)、カスティーリャ・レオン連合王国内のポルトゥカーレ伯領を起源とする新興ポルトガル王国は、12世紀前半に、連合王国に勝利して自立(1129年)、ムラービト朝軍にオーリッケの戦いで大勝した後に独立を宣言(1139年)、カスティーリャ王国の承認(1143年)を得てポルトガル王国として成立しました。そして、レコンキスタを更に進め、第2回十字軍分派の支援を受けリスボンを攻略(1147年)、その後、ベジャ(1162年)、エヴォラ(1166年)と支配地を拡大しました。
(3)、ムラービト朝は、12世紀に入り、半島の攻略を更に進め、バレンシア獲得(1102年)、サラゴサ占領(1110年)と南部イベリア半島の統一を促進しましたが、本国モロッコでの反乱(1121年)が拡大して、やがて、ムワッヒド朝が興り、ムラービト朝は滅亡(1147年)しました。半島のイスラム教国は、ムワッヒド朝の支配下に入り、キリスト教諸国家に対峙しました。12世紀後半になると、ムワッヒド朝は攻勢に転じて、アラコルスの戦いでカスティーリャ王国軍を破り(1195年)、マドリード(ご参考:マドリードの風景)・トレドを攻撃(1197年)し、イスラム教国軍が半島で優勢となり、キリスト教諸国は危機を迎えました。
13世紀に入り、イスラム教勢力に対する脅威から、イベリア半島のキリスト教諸国家は、カスティーリャ王国を中心にキリスト教連合軍を結成、ラス・ナバス・デ・トロサの戦い(1212年)でムワッヒド朝軍に勝利し、当面の脅威を取り除きました。その後、緩やかに衰退したムワッヒド朝は、半島の支配権を喪失、やがて新興のマリーン朝に滅ぼされ消滅(1269年)、一方、半島のイスラム教勢力は小国家に分裂しました。勢いを得たキリスト教諸国は、半島全域でレコンキスタを加速させて、13世紀中頃に興ったグラナダのナスル朝を除き、イスラム勢力を半島より駆逐しました。
(1)、カスティーリャ王国は、ヨーロッパの第4回十字軍結成を期に、その支援を受けると共に、半島におけるキリスト教連合軍を結成、ラス・ナバス・デ・トロサの戦い(1212年)でムワッヒド朝軍に勝利し、半島勢力の均衡回復を果たしました。また、レオン王没後のレオン王国を継承・両国を統合(1235年)して体制を整備し、そして、半島中央部より南下を再開して、ウペダ攻略(1233年)、コルドバ占領(1236年)、ナスル朝の臣従(1246年)、ムルシアの降伏・カルタヘナ・ロルカの攻略・セビリャ開城(1248年)、ジブラルタル海峡到達(1251年)と、レコンキスタをほぼ完了させ、13世紀半ばには、グラナダ(ご参考:グラナダの風景)のナスル朝を除くイスラム勢力をイベリア半島より一掃しました。
そして、カスティーリャ王国は、ムワッヒド朝の弱体化を機に、ジブラルタル海峡を渡りモロッコへ侵攻(1260年)しました。急激に衰退したムワッヒド朝は、新興のマリーン朝に滅ぼされ消滅(1269年)しました。マリーン朝と対峙することになったカスティーリャ王国は、13世紀後半になって半島への逆侵攻を受け(1275年)、北アフリカとイベリア半島の両方に戦線を構えることになりました。
(2)、アラゴン王国も半島東部側から南下して、バレンシアを制圧(1238年)、ハティバを攻略(1248年)して、グラナダ以東は、全てキリスト教勢力下に入りました。また、ポルトガル王国は、レオン王国と連携して半島南西部に侵攻し、メリダ・バダホス・エルヴァスを占領(1230年)、更にアラゴン王国と連携して、バレアレス諸島を制圧(1235年)しました。13世紀中頃には、ポルトガルのイスラム教勢力を駆逐(1249年)しました。
カスティーリャ王国は、残存するイスラム教勢力の駆逐に向けて、14世紀中頃のサラードの戦いに勝利して、半島よりマリーン朝を撤退させ、ナスル朝を孤立化させました。しかし、その後、内紛と王位継承問題が断続的に発生して、ナスル朝の攻略は進展しませんでしたが、15世紀後半に入り、アラゴン王子とカスティーリャ王女の結婚(1469年)を機に、その後両王の即位で、同君連合が成立して、スペイン(イスパニア)王国が誕生(1479年)しました。イスパニア王国は、ナスル朝攻略を再開(1482年)して、グラナダを無血開城(1492年)しました。これで、およそ250年続いたイベリア半島最後のイスラム王朝ナスル朝を滅ぼして、キリスト教国家のレコンキスタ(再征服運動)を完了させました。
(1)、14世紀に入り、アラゴン王国は、バルセロナを拠点に地中海へ発展していき、フランスの圧政で蜂起したシチリア島を獲得(1282年)・シチリア王となりました。14世紀中頃には、フランスの支配するナポリ王国の後継問題を機に支配(1443年)し、その後奪還(1494年)されますが、再奪還してイタリアの政治に関与しました。この間、イベリア半島では、カスティーリャ王女と結婚(1469年)して、カスティーリャ王国の王位継承問題に介入(1474年)し、対立するポルトガル王国連合軍に勝利しました。その後両王の即位で、同君連合が成立し、スペイン(イスパニア)王国が誕生(1479年)しました。
(2)、ポルトガル王国は、14世紀のペスト流行(1348年)の危機を乗り越え、15世紀に入り、マリーン朝の支配するモロッコ北端の要衝セウタを攻略(1415年)して、アフリカ航路の開拓に力を入れ、喜望峰の発見(1488年)、アンゴラの植民地化開始(1490年)、インド航路の開拓と大航海時代を謳歌していきました。
(3)、一方、北アフリカのマリーン朝は、ムワッヒド朝を征服し、カスティーリャ王国の王位継承紛争を利用するなど、レコンキスタに介入して一時優位に立ちましたが、14世紀前半に、カスティーリャ王国の反攻を受け、アルジェリアを奪われ(1340年)、その後奪還(1347年)するも、内紛・反乱・ペストの大流行等国情が安定せず衰退を続けて、15世紀後半に滅亡(1470年)しました。
(4)、また、半島のナスル朝は、マリーン朝との連携など、小国家ながら巧みな外交政策などで独立を維持してきましたが、マリーン朝の衰退・地中海貿易の衰退等により国力も低下して、イスパニア王国に征服され、15世紀末までの250年を超える治世を残しましたが、消滅(1492年)しました。
(5)、14世紀中頃に入り、カスティーリャ王国は、サラードの戦いに勝利(1340年)して、アルヘシラス(ジブラルタル海峡近傍の都市)を占領(1342年)、半島よりマリーン朝を撤退させ、ナスル朝を孤立化させましたが、半島でのペストの流行(1343年)・王位継承問題の発生(〜1369年)と英仏の介入等で、ナスル朝攻略は実施されませんでした。15世紀に入り、ナスル朝攻略が開始されアンテケーラを攻略(1410年)しました。しかし、アラゴン王国との内紛が続き、やがて、王位継承問題(1468年決着)も発生して、頓挫しました。
15世紀後半に入り、アラゴン王子とカスティーリャ王女の結婚(1469年)を機に、その後両王の即位で、同君連合が成立して、スペイン(イスパニア)王国が誕生(1479年)しました。しかし、この間に、決着したはずの王位継承問題が、カスティーリャ王国の女王即位と共に再燃(1474年)して、ポルトガル王国・アラゴン王国も介入、アラゴン連合軍が勝利し・敗北したポルトガル王国の承認(1479年)をもって終了しました。
イスパニア王国は、国内の反対派を一掃・国内安定化後、ナスル朝攻略を再開(1482年)・グラナダを無血開城(1492年)しました。およそ250年続いたイベリア半島最後のイスラム王朝ナスル朝の消滅をもって、キリスト教国家のレコンキスタ(再征服運動)は完了しました。尚、半島のスペインの統一は、16世紀に入って、ナバラ王国の併合(1515年)をもって完了しました。
<春来たりて (東京 小石川後楽園)>
年代 | スペイン・ポルトガル | 備 考 |
前 史 |
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ロ | マ 帝 国 |
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西 ゴ | ト 王 国 |
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イ ス ラ ム 支 配 の 時 代 |
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レ コ ン キ ス タ の 時 代 |
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<一景 (栃木 駒止の滝)>
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西ローマ帝国(395年誕生)は、ゲルマン民族の大移動(375年)に伴う諸部族の侵入を受けて、徐々に領土と支配権を喪失、5世紀半ばには、イタリアとガリアの一部を、皇帝が直接統治するに過ぎない状況にまで衰退しました。そして、ゲルマン族出身の傭兵の勢力が強大になる中、帝国支配をめぐる内紛が頻発するようになりました。やがて軍司令官の帝位争奪を契機に、傭兵隊長オドアケルが反乱を起こして、西ローマ帝国は滅亡(476年)、オドアケルは東ローマ帝国の任命でイタリアを支配しました。
ゲルマン諸族のゴート族は、ヨーロッパ北部のスカンジナビア南部からバルト海を渡り、紀元前後に現ポーランドに定住し、3世紀にはドナウ川領域・黒海周辺に南下しました。ドニエストル川を境に、西ゴート族は以西のドナウ川までを、東ゴート族は以東の黒海沿岸(現ウクライナ)までを支配しました。ローマ帝国と対峙して、3世紀から4世紀にかけて、バルカン半島・小アジア・地中海北西部に猛威を振るいました。
しかし、東ゴート族は、4世紀後半に入り、ヨーロッパ東部の制覇を目指し、西進するフン族に敗退(370年頃)して征服されました。その後、フン族は、5世紀半ばのローマ・ガリア連合軍との戦(451年)で敗北、その際に東ゴート族は独立を回復、ローマ帝国の認可の中、現在のハンガリー西部からクロアチアおよびスロベニア北部、オーストリア東部に居住地を定めました。やがて、東ローマ帝国の要請に応じて、西ローマ帝国消滅後のイタリア半島に侵入(488年)、西ゴート王国の支援を得て(490年)、オドアケル軍を破り、東ゴート王国を建国(493年)しました。しかしながら、6世紀前半に、東ローマ帝国のイタリア半島の再征服戦争に敗北を喫して、王国は滅亡(555年)しました。
一方、4世紀後半に、フン族の脅威を受けた西ゴート族は、ドナウ川南のセルビア・ブルガリア地区に移住、ゲルマン民族大移動の初めとなりました。この際に、西ゴート族は、アドリアノープル(現トルコ、378年)・コンスタンチノープル(現イスタンブール)で、ローマ軍に勝利・和解し、ローマ軍の補助軍として、ローマ帝国に影響力を持つようになりました。その後、5世紀に入りローマを侵略、南ガリアに西ゴート王国を建国(415年)、また、ローマとの連合軍で西進するフン族を撃退(451年)、イベリア半島の統一国家形成(621年)へと拡張していきました。しかし、8世紀に入り、北アフリカからのイスラム教徒軍の侵入により滅亡(711年)を迎えました。
西ゴート王国の圧迫を受けて、イベリア半島より北アフリカに渡り、カルタゴ(現チュニジア)にヴァンダル王国を建国(439年)した、ゲルマン諸族のヴァンダル族は、5世紀半ばに西ローマ帝国との同盟を破棄して、西地中海の制海権を握り、シチリア島を攻撃、ローマを略奪(455年)し強勢を誇りました。しかしながら、宗教対立やベルベル人の反乱などで衰退して、6世紀前半に、東ローマ帝国の再征服戦争により滅亡(534年)しました。
ウマイヤ朝は、シリア総督ムアーウィヤが、第4代正統カリフのアリーとの抗争に勝利して誕生(661年)した王朝で、カリフ位をウマイヤ家一族の世襲制(イスラム史上初の)として14代続きました。都はシリアのダマスカスで、西は北アフリカ(東ローマ帝国より奪取)・イベリア半島(西ゴート王国を滅亡)を征服、東はイラク・中央アジアのサマルカンド(現ウズベキスタン)を制圧(中央アジアのイスラム化を進展)、そして、この間、地中海の制海権を得て、8世紀初頭に最大領域となりました。
また行政面では、アラブ人による集団的な異民族支配を、国家の統治原理として、非アラブ人は、庇護民として人頭税(ジズヤ)と、地租(ハラージュ)の納税義務を負わせ、アラビア語の公用化とアラブ貨幣の発行により、中央集権化を進め、イスラム国家の基盤を築きました。しかし、8世紀中頃に入り、アラブの部族間対立、地方の反乱などが続く中、反ウマイヤ家を掲げるシーア派などの協力を得たアッバース家により、ウマイヤ朝は滅亡(750年)しました。しかし、王族のひとりアブド・アッラフマーン1世は、イベリア半島に逃れ、後ウマイヤ朝を建国(756年)しました。
イベリア半島北東部(ピレネイ山脈北部)に住むバスク族は、9世紀に入り、西ゴート王国・ウマイヤ朝・後ウマイヤ朝・フランク王国の歴代の支配より脱して、パンプローナ(現ナバラ州の州都)の地に、パンプローナ王国を建国(824年)しました。10世紀後半にナバル王国となり、王はナバル王及びアラゴン伯として統治しました。11世紀に入ると最大版図となり、カスティーリャ伯領を相続して、西はガリシア国境より、東はバルセロナまでの間、その当時のキリスト教国の大部分を支配しました。
しかし、王の死後(1035年)国土は分割相続され、ナバラ、カスティーリャ、アラゴンに分かれ、その後、カスティーリャはレオン王国と連合し、アラゴンはカタルーニャと連合(1137年)しました。やがて、ナバラ王国も衰退して、アラゴン王国と連合(1076年)し、アラゴン王国の統治下に入りました。
11世紀半ば、サハラ砂漠西部(北アフリカ)のベルベル系遊牧民サンハージャ族は、イスラム王朝のムラービト朝を興し、モロッコとアルジェリア北西部、イベリア半島南部のアンダルシアを支配し、強勢を誇りました。しかし、イベリア半島のレコンキスタの進展の中、12世紀半ばに、アンダルシアでの反乱、本国モロッコでのムワッヒド運動により滅亡(1147年)しました。
ムワッヒド朝は、12世紀半ばに、ベルベル人のマスウーダ族を中心に建設されたイスラム王朝(1130年〜1269年)で、モロッコ・チュニジア以西の北アフリカ、イベリア半島南部の現アンダルシアを支配しました。首都はモロッコのマラケシュで、ヨーロッパでは、「アルモハード朝」という名前で知られていました。12世紀後半の第3代カリフ時代に全盛期を迎え、リビア西部を版図に加え、十字軍と戦うアイユーブ朝(1169年〜1250年、エジプト・シリア・メソポタミアを支配)を支援する一方、イベリア半島でカスティーリャ軍を撃破して、レコンキスタに対抗しました。
しかし、13世紀に入り、ラス・ナバス・デ・トロサの戦で、キリスト教徒連合軍に大敗(1212年)し、イベリア半島の統制権を喪失、その後は政権抗争や北アフリカ諸部族の反乱で衰退、モロッコ以外の領土を失って、新興勢力マリーン朝(1269年)による首都攻略で滅亡しました。
マリーン朝は、12世紀後半に、ベルベル系遊牧民ザナータ族が、モロッコに創設(1195年)したイスラム王朝で、首都はフェスに置かれました。13世紀後半に入り、内紛とレコンキスタで衰退したムワッヒド朝を、滅亡(1269年)に追いやり版図を拡大、また、カスティーリャ王国の王位継承の紛争を利用し、レコンキスタに介入して、一時優位に立つも、14世紀前半に、アフリカ大陸に侵攻したカスティーリャ王国に、アルジェリアを奪われました(1340年)。その後奪還(1347年)するも、内紛・反乱・ペストの大流行等国情が安定せず衰退を続けて、15世紀後半に滅亡(1470年)しました。
ナスル朝は、イベリア半島のレコンキスタが進む中、13世紀前半に、イベリア半島最南部に建国(1237年)されたイスラム王朝で、首都をグラナダに置き、15世紀末までのおよそ250年間存続しました。小国家ながら、巧みな外交政策などで独立を維持し、アルハンブラ宮殿にみられるような文化的遺産を後世に残しました。しかしながら、イスパニア王国に征服されて消滅(1492年)し、この最後のイスラム国家の滅亡を持って、イベリア半島における、キリスト教国家のレコンキスタ(再征服運動)は完了しました。
<一景 (群馬 尾瀬ヶ原)>
ポルトガル王国の起源は、10世紀頃から始まる、キリスト教国家のレコンキスタ(国土回復運動)の進行の中、カスティーリャ・レオン連合王国内の、フランク王族(ブルゴーニュ家)が支配(1095年)した、ポルトゥカーレ伯領が母体となりました。その後、連合王国に勝利して自立(1129年)、イスラム教国ムラービト朝軍にオーリッケの戦いで大勝した後に、独立を宣言(1139年)、カスティーリャ王国の承認(1143年)を得て、ポルトガル王国として成立しまた。
そして、更にレコンキスタを進める中で、第2回十字軍分派の支援を受け、リスボンを攻略(1147年)、その後、ベジャ(1162年)、エヴォラ(1166年)と支配地を拡大、13世紀中頃には、ポルトガルのイスラム勢力を駆逐(1249年)し、現在の領土を形成しました。
レコンキスタ完成後、商業や学芸が盛んとなり、リスボンは北海と地中海を結ぶ交易拠点として栄えました。14世紀のペスト流行の危機を乗り越え、アフリカ航路の開拓に力を入れ、喜望峰の発見(1488年)、インド航路の開拓、ブラジルの発見(1500年)、香料諸島や日本への進出等、ポルトガルは東方貿易で大いに繁栄しました。
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